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脱社畜ブログと社畜は結構似た者同士なんじゃないか 後編

前回の記事で「脱社畜ブログ」の「"やりがいのある仕事"という幻想」というエントリーを取り上げた。今回の記事でもそのエントリーを引き続き取り上げたいのだが、エントリーの中で僕が一番意味不明だと感じたのは次の記述である。

一点、本書(※森博嗣さんの著書「"やりがいのある仕事"という幻想」のこと)で特に面白いと思った部分がある。「本当に仕事を楽しんでいる人は、それを殊更他人に語ろうとしたりはしない」といった趣旨の記述があって、なるほどこれは本当にその通りだと思った。「俺は今こんなに楽しい仕事をやっている」とか、「俺は仕事が好きだ」とか、そういうことを外に向けて発信したがっている人を見かけることがあるけど、これは何のためにやっているのだろう。本当に好きだったら他人に自慢をする時間すら惜しいはずで、その時間を仕事にあてたほうがいい。それをわざわざ自慢するということは、本当はそこまで楽しいと思っているわけではなくて、自慢を通して自分自身を納得させようとしているのかもしれない。もちろん、純粋に自慢が好きな人もいるのだろうけど。

この引用箇所は「本当に仕事を楽しんでいる人は、それを殊更他人に語ろうとしたりはしない」という記述からして既に信用に値しない。飯田泰之さんの著書「ダメな議論」における次の記述を見れば、その理由を分かっていただけると思う。

この「本当は○○はそんなものではない」という論法は何にでも使える便利な批判の方法です。例えば、自分が勤める会社の業務会議の席上で、Aさんの提案する作業の効率化策が自分にとって損になる、またはAさんを個人的に嫌いだという場合には「そのような小手先の手法で改善が果たせても、はたして本当の意味での効率化と呼べるのだろうか?」と批判すれば、頭をいっさい使わずになんとなく反論「っぽい」発言が可能となります

飯田さんの解説を踏まえると、森博嗣さんも「脱社畜ブログ」も「仕事が好きだと公言している人」への嫌悪感ありきで小手先な批判をしているだけなんじゃないか?という考えに至る。そもそも、なぜ森博嗣さんや「脱社畜ブログ」の言う「本当に仕事を楽しんでいる人」が真に「本当に仕事を楽しんでいる人」なのか、考えてみればそこにはきちんとした根拠が備わっていないではないか。


一応「脱社畜ブログ」には理由として「本当に好きだったら他人に自慢をする時間すら惜しいはず」とあるけれど、いくらなんでもこれは滅茶苦茶すぎる。これは例えば「最近、マージャンにはまってて好きなんだよね」とツイッターでつぶやいたら「本当にマージャンが好きだったら、そんなつぶやきをしてる時間があれば雀荘に行ってるはずだろう」という突っ込みを受けてしまうということか。そこまで没頭するレベルじゃないと「好きだ」と言っちゃいけないんですか?としか思えない。


この点これはあくまでも想像だけど、恐らく「脱社畜ブログ」も趣味やボランティア活動など仕事外の取組みを楽しいと発信することには異議を唱えないような気がする。しかしなぜか「仕事が好きだ」、「仕事が楽しい」という発言に対しては、上述のように「それをわざわざ自慢するということは、本当はそこまで楽しいと思っているわけではなくて、自慢を通して自分自身を納得させようとしているのかもしれない」という訳が分からない捉え方をしている。このような事情に加えて前回の記事のコメント欄に寄せられた「ななし」さんの意見を踏まえると、僕としては「脱社畜ブログ」が「仕事が好きだ」と公言する人を下に見て「働くのが嫌いな自分」を無理やり自己正当化しようとしているように感じられるし、そしてそれは所謂社畜が自己正当化のために働かない人・働くのが嫌いな人を下に見るのと同じなのではないか?と考える訳である。


多分"job is shit"のフレーズで有名になった海外ニートさんのブログを機に、日本の労働環境や仕事観に疑問の目を向ける動きは少しずつ活発になってきていると思うし、そういう言説が「ウケる」のも事実だろう。しかしいくら日本の労働環境がおかしいとしても、日本の労働環境・仕事観を批判してる言説がすべて的を得ているのかというとそれは違うはずだ。少なくとも僕は、「"やりがいのある仕事"という幻想」というエントリーから感じられる「脱社畜ブログ」の仕事観に関する理屈はめちゃくちゃだと思うし、それは批判すべきだと考えている。

「脱社畜ブログ」も「社畜」も向いている方向は違えど、結局は似た者同士なんじゃないかという意見に共感してくださった方は、もし宜しければクリックをお願いします
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脱社畜ブログと社畜は結構似た者同士なんじゃないか 前編

「脱社畜ブログ」という、日本の労働環境に疑問の目を向けたり、「労働」という行為を相対化することを試みたりしているブログがある。僕もこのブログで労働問題について論じていることもあり、「脱社畜ブログ」の主張に共感することも少なくない。しかし、一方で違和感を覚えることもしばしばある。


肝心の違和感の中身だが、それは「脱社畜ブログ」も「社畜」も向いている方向は違えど、実は結構似た者同士なんじゃないかということだ。どのような点が似ているかに触れる前に、僕が違和感を持つきっかけとなった「脱社畜ブログ」の「"やりがいのある仕事"という幻想」という記事における記述を一部引用したい。

人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かないほうが良い状態だ。働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だといえる。ただ、一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけである。

社会貢献だとか、やりがいだとか、生きている意味だとかを問い始めて仕事を考えるよりかは、このような「当たり前なこと」を出発点として「仕事」というものを考えていくほうが余程自然だと僕は思っている。しかし、残念ながら我が国ではこういう自然な考え方は異端視される。「働かない方が人間的だ」なんて言ったら、働くことを神聖視している一派から石が飛んでくる。「お金が稼げないから、仕方がなく働いている」ということは、たとえ思ったとしても、口に出してはいけないようだ

なお「人は働くために」~「お金が稼げないという問題があるだけである」の記述は森博嗣さんの著書「"やりがいのある仕事"という幻想」からの引用となっている。ちなみに中野剛志さんの「レジーム・チェンジ」という本にはアメリカの社会科学者のロバート・レーンさんの研究が載っていて、その研究によると「労働こそが、(人々に)幸福感をもたらす」ことが詳細な実証データに基づき明らかになっているらしい。「"働かない方が人間的"というのが当たり前」と個人で思う分には自由だけれど、学術的には森博嗣さんや「脱社畜ブログ」の考えの方が異端といえそうである。


とはいえ僕が違和感を覚えるのは、「脱社畜ブログ」の見解が学術的見地から見て誤っている(と思われる)からではない。どこに違和感を覚えるのかというと、結局「脱社畜ブログ」も「社畜」も自分の価値観を絶対視し、その価値観の対極にいる人を下に見るという点では同じなのではないか?ということだ。「社畜」は「働くこと」を、「脱社畜ブログ」は「働かないこと」を神聖視し、その上で自分の価値観にそぐわない生き方を下に見るかのようなことを言っているように感じられる。


この点、仮に「脱社畜ブログ」が「自分にとっては、"働かない"ほうが人間的な生活ができる」、「"働きたくない"と考える人いるのは自然だ」という言い回しを用いているならば何も問題はない。「なるほど、あなたはそう感じるんですか」、「確かに人はそれぞれ考えや向き・不向きが違うから、仕事が好きな人もいれば、組織の中に入って働きたくないと感じる人が一定数いるのは自然ですよね」と感じておしまいである。さらにこのような言い回しならば、別に仕事が好きな人を攻撃していることにもならない。


しかし実際に書かれていることは、一般論として「"働かない方が人間的"というのが当たり前」、「"働かない方が人間的"ということを出発点にして"仕事"を考えるのが自然な考え方」というものだ。まるで、日々働いている労働者が「人間性」を損なっていたり、社会貢献ややりがいを胸に仕事に従事する人が不自然であるかのような表現ではないか。所謂「社畜」は「社会人なら~するのが当たり前」という自分が勝手に作ったルールを武器に労働にさほど熱心でない人を批判するわけだけど、「脱社畜ブログ」も「働かない方が人間的だ」という勝手に作った価値観を武器に労働者(特に仕事熱心な人?)を批判しているわけで、ゆえに「脱社畜ブログ」は主張の方向性は異なるとはいえ、行動原理は「社畜」とさほど変わらないんじゃないかと思うわけである。もっとも、どちらが一層クソなのかといえば、他者に実害をもたらす「社畜」の方だけれども。


「脱社畜ブログ」には「"働かない方が人間的だ"なんて言ったら、働くことを神聖視している一派から石が飛んでくる」とあるけど、そりゃ先にそっちが「働く」という行為に石を飛ばしてるんだから、逆に石を投げ返されるのも当たり前だろう。一体、何を考えているんだと思う。「あなたが"働きたくない"と思うのは勝手だけど、なんで"働かない"方が普通かのような言い方をされなきゃいけないんだ。まるで働いている自分たちがおかしいみたいじゃないか」と思われても全然不思議ではないじゃないか。


別に働くこと・働かないことのどちらがより人間的な生き方に資するのかなんて、そんなものはどちらでもよい。これは各々の価値観により異なるに決まっている。大事なのは生き方の優劣を論じることではなく、労働が好きな人から労働に向いていない人まで多様な価値観を包摂するということだろう。なんで「"働かない方が人間的"というのが当たり前」とまで言っちゃうかなと思う。労働を相対化しようと試みるのは意義があることだと思うけれど、一般論として「働かないこと」が「働くこと」よりも生き方として良いということもないはずだ。
 
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何十社もの選考に落ちて努力できなくなった人がだらしないというより、何十社も落ちてなお努力できる人が凄すぎるだけではないか

昨日の産経新聞に「内定もらえず努力放棄の学生増加 "コネ入社できる企業はないですか?"」という記事が載っていた。これは内定塾の塾長・宮川洋さんが書いた記事である。


現在は5月も終わりに差し掛かっているということで、内定塾に、何十社と選考を受けながらも未だ良い結果が得られていない学生からの相談が多く寄せられているらしい。そして宮川さん曰く、何十社もの選考に落ちた学生をさらに①努力をせずに内定を獲得しようとする学生②ひたむきに努力をして内定を獲得する学生の2タイプに分類することが可能とのこと。当然、宮川さんは②の学生を高評価している。


一方で宮川さんは①の学生を「今まで何社、何十社と選考に落ちたことで、自信をなくし、他人に頼ることしか考えない」、「自分自身で努力することを考えず、他人に頼ったり、"楽な方法"を模索したりしていた」と評している。この点、就活当初から楽をすることしか考えていない就活生が苦労したり、あるいは企業などから低く評価されたりすることには何も同情の余地はない。


しかし、もし「何十社もの選考に落ちた」結果として楽な方法を模索するようになったのならば、それを非難するのはどうなのかと思う。このように思う理由は「学習性無力感」という概念の存在だ。


これは米国の心理学者マーティン=セリグマンが1967年に発表した、「努力を重ねても望む結果が得られない経験・状況が続いた結果、何をしても無意味だと思うようになり、不快な状態を脱する努力を行わなくなること」を証明した心理学理論である(http://kotobank.jp/word/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%80%A7%E7%84%A1%E5%8A%9B%E6%84%9F)。例えば、監禁の被害者が逃げようとしたけれども加害者に見つかって暴行されたということが何度も続いた場合、後に客観的に見れば容易に逃げられる状況が出来ても、被害者はもはや過去の経験から「逃げても無駄だ」ということを学習してしまったから逃げるのを放棄したというケースが「学習性無力感」の一例と説明される。


ここでこの概念を就活に引き付けて考えてみると、就活における「不快な状態」とは「就職が決まらない状態」で、「努力を重ねても望む結果が得られない経験・状況が続いた」とは「何十社もの選考を受けたが、内定を得られない状態が続いた」と言えると思う。平たく言ってしまえば、就活生が何十社もの選考に落ちた結果「努力しても無駄でしょう」という無力感に囚われるということが「学習性無力感」という概念を参考にすると理解できる。


宮川さんは自身の記事で②のタイプの学生、具体的には「150社もの選考に落ちたにも関わらず企業にエントリーシートを出し続け、その結果6月に3社の内定を獲得した女子大生」の例を紹介して彼女を高評価しているが、それはその女性のメンタルが異様に強すぎるという話なのではないかと僕は思っている。つまり「学習性無力感」という概念を踏まえると、何十社もの選考に落ちて努力できなくなった人がだらしないというよりも、何十社も落ちてなお努力できる人が凄すぎるだけと捉えるのが適切なのではないかと考える。この女性はある意味では、競争率の高い選考を勝ち抜いた大手・有名企業の内定者よりもキャパがあるといえるレベルなんじゃないか。


勿論いつまでも「たくさんの会社に落ちた人がやる気を出せないのは仕方がないんだ」と擁護するわけにもいかない。しかし、もし多くの会社に落ちた人から気力が感じられないという状況に直面した場合、いきなり「この人はもともとだらだらと物事に取り組む人なんだな」だとか「努力を止めるなんて、しょうもない人だな」という考えに飛びつく前に、まずはその人が「学習性無力感」に囚われている可能性を検討してみるべきではないだろうか。

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面接という茶番劇に「自分を偽ったら、入社後に後悔するよ」というアドバイスを胸に臨む就活生が抱くであろう葛藤

「面接が茶番だ」という言葉を発したことがある人は決して少なくないだろうが、この言葉が意味するものは「面接官に合わせるために、思ってもいないことをペラペラと話さなければならない」という苛立ちだと思う。例えば志望動機を聞かれた際に、本当は「お金が欲しいから」という理由しかないのに「御社の~なところに惹かれて・・・」という方向性で答えることを余儀なくされる。


誤解しないでほしいが、ここで言いたいのは「面接官は、本音を剥き出しにする就活生を採用するべきだ」ということではない。ただそれでも、自分が思ってもいないことを発言することに嫌悪感を抱く就活生が「面接は茶番だ」という気持ちを抱くこと自体は決して否定できないと思っている。


そもそもなぜ「自分が思ってもいないことを発言すること」を「茶番」と感じてしまうのだろうか。それは、そう感じる人の中に「自分の思っていることを正直に伝えることこそが是だ」という常識が定着しているからではないかと僕は考えている。だからこそ、その常識から逸脱した「嘘をつく」という行為をバカバカしいと感じるのだと思う。


加えて就活の場面においては、就活生に「面接では、自分が考えることを正直に話すべきだ」と思わせるツールがある。それはよく言われる「面接で自分を偽ると、入社後に後悔するよ」というアドバイスだ。これは言葉の通り、嘘をついてまで面接官に気に入られようとしてはいけないということを就活生に要請する助言と言える。このアドバイスは別に間違っていないだろうし、このアドバイスのおかげで納得のいく企業に就職することができた人もたくさんいるだろう。


しかし一方で、とある就活生の「自分の本音」が明らかに企業が求める素養から逸脱している場合、このアドバイスは就活生を心理的に追い込むことにつながるのではないか。具体的には「面接では本音を話そう」というアドバイザーからの要請と「~な質問ではちゃんと"建前"を語ってくれ。さもなければ落とす」という面接官からの暗黙の了解に挟まれることにストレスを感じる就活生は少なくないのではないか。アドバイスを受けて「面接では本音を語ることが是だ」と感じている状況下で自分の本心とは異なる発言をすることにバカバカしさを覚えるのではないか。


こうした類のストレスを軽減するため、僕は「面接では本音を話そう」というアドバイスをより丁寧に発する必要性があるのではないかと考えている。つまり、「確かに面接では本音を突き通すべき場面は必要だけれども、一方で必要に応じて"嘘"・・・というか"建前"を語ることは少しもおかしなことではない」という形でアドバイスを発する必要があるのではないかと思っている。ここでいう「本音を突き通すべき場面」とは「嘘をつくことにより、入社後に会社に馴染めなくなる状況を生み出し得る場面」のことを意味している。


例えば、学生時代の経験からどう足掻いても飲み会を好きになれなかった人が面接の場面にて「うちは社員同士の飲み会が多いんだけど、お酒とか好き?」と問われた場合は、それは「飲み会は嫌いです」という「本音を突き通すべき場面」といえる。なぜなら、飲み会嫌いの人が飲み会が多い会社に馴染むことは通常想定しがたく(飲み会の存在に憂鬱になるのがオチでしょう・・・)、入社しても不幸になることが見え見えだからだ。一方で、例えば「尊敬する人は誰ですか?」という質問がなされた際に「尊敬する人なんか別にいねーよ」と思っていた場合、それはとりあえず面接官の話に合わせる場面と言える。別にそんな質問に嘘をつこうが、入社後に「おい、お前あの時○○を尊敬してるって言っていたじゃないか!」と軋轢が起こることはまず無いだろうと思うので(笑)


このように考えるので、詳細な説明抜きに「面接ではありのままの自分を出そう」とアドバイスする、つまり就活生に「あらゆる局面で本音を語るべきだ」と思わせてもおかしくない形でアドバイスする人を僕は無責任だと感じる。「時に、本心と異なることを述べて面接官とのコミュニケーションを円滑にしようと心がけるのはおかしなことではない」というコンセンサスが根付くことで楽になる就活生は一定数いるのではないだろうか。「面接では本音を語ろう」という圧力を無くすべきだとまでは全く思わないけれども、少なくとも緩和する必要はあるのではないか。


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「ウチが第一志望ですか?」という質問を1次面接の段階でするのはおかしくないか

こちらの記事のコメント欄(http://lingmu12261226.blog10.fc2.com/blog-entry-419.html#comment3421)に「一三」さんから次のようなコメントを頂いた。

私が「変なの!」と思うのは弊社が第一志望ですか?という面接での質問です。そんなの答えるべき答え、決まってるじゃん。「第一志望です」

この意見に対しては半分反対で、半分賛成という考えを持っている。


まずなぜ「反対」なのかというと、別に最終面接ではそのような質問をしても良いのではないか?という考えを持っていることによる。この段階においてはそれまでの面接を通じて社員とコミュニケーションを重ねてきているわけで、それを踏まえて「他社ではなく、ウチに入る意思はあるのか?」と問いかけ、求職者の意思とその意思を持つに至った理由を確認することはそれほどおかしいこととは思えないのである。


しかし、1次面接や2次面接といった早い段階、換言すれば未だ社員とそこまで話していない状況下にある就活生に「ウチが第一志望ですか?」と問いかけるのはおかしいと感じている。就活生からすれば「ある程度は志望しているけど、"第一志望"にするかはこれからの面接で決めたいんだけど・・・。他にも受けているところがあるし」と思っても仕方が無いのではないか。  


よく面接は「お見合い」に例えられるけれど、僕がその例えを適切だと思えない理由は「1次面接など早い段階で第一志望かどうかを聞く面接官の行為」にある。僕はお見合いをしたことがないので現状認識が間違っているかもしれないが、まさか出会って少しだけ話した段階で「私と結婚してくれますか?」と相手方が言い出すお見合いは無いだろう。そんなこと言われたら「それは、もうちょっと互いに理解しあってから聞いてくれないか。そして今の段階ではあなたのことをよく知らない」と感じるのが自然だ。しかし面接の場においてはこのようなおかしな問答がなされることが珍しくないわけで、だから面接は「お見合い」に例えるよりも、やはり単純に「面接官による就活生の選別作業」と称したほうが適切なのではないかと考えるわけである。


これに関して、いつもこのブログで批判させていただいている(笑)常見陽平さんが次のような妥当な見解を述べている(http://www.s-shiori.com/con3/archives/2012/04/post-157.html)。

学生がかわいそうだと思うのは、(※「ウチは第一志望ですか?」と面接官から聞かれると)結局のところ「第一志望です」と言わざるを得ないことですね...。面接官からしても、せっかく業務を抜けて面接に協力したのに、「第一志望群です」と言われるとカチンとくる人もいるわけで。学生は「その面接を受けている瞬間は、その企業を第一志望だと思って臨む」しかないということになります(中略)やや極論ですが、企業の採用担当者は「ウチは第一志望ですか?」という質問をやめるべきだと考えています。第一志望だと決められるだけの情報を開示しているわけではありませんし、普通に考えると同時期に同じくらいの志望度で活動しているわけですから、その企業以外で揺れていることは明らかです。だいたい、その質問をしている面接官自体、その企業は第一志望だったのでしょうか?(中略)そもそも、採用活動は「来たい学生」ではなく「欲しい学生」を採用する行為です。欲しい学生は第一志望だろうとそうじゃなかろうと、志望度を上げ、口説き落とすのが採用活動です。志望順位も、志望動機すら聞かずに、納得のいく採用活動をしている企業は多数ありますし。

これはもっともな意見だと思う。上述のように、僕としては「最終面接だったら、第一志望かどうかを聞いてもよいのではないか?」と考えているが、「志望順位も、志望動機すら聞かずに、納得のいく採用活動をしている企業は多数あります」ということなら「そもそも第一志望かどうかを聞くのはやめよう」という見解も十分採り得る。しかし、「辞退者を出したくない」という企業側の利益に配慮すると、「最終面接で第一志望かどうかを聞く」という行為は肯定すべきなのではないかと僕は思っている。常見さんの言う「志望順位も志望動機も聞かずに採用活動がうまくいった企業」は、単純にその企業が有名で人気のある企業だったという話に過ぎないのではないか?という疑問もあるので、常見さんの見解には完全には賛成できない。


この通り細かいところで見解の違いはあるが、結局のところ、僕の見解でも常見さんの見解でも「1次面接で第一志望かを聞くのはやめよう」という結論に達する。「ウチは、嘘つきを採用したいんだ」という危なそうな会社や「はじめから最後までウチのことを第一に考える就活生しか採用したくない!」という訳が分からない会社を相手にしない限り、この見解は一定の説得力を持つものではないかと考えている。面接において不毛な問答がなされることが止むことを望みたい。


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就活生にとって自身の友人は、自分の心の支えとなっていると同時に自分を追い込む存在ともなっている

こちらの記事(http://lingmu12261226.blog10.fc2.com/blog-entry-142.html#comment3395)のコメント欄で「大学生が自害する原因」に関するデータについてのやり取りがなされているが、「自殺問題」に取り組むアクターといえば、NPO法人・自殺対策支援センター「ライフリンク」。そしてライフリンクといえば、今年の春に実施した「就職活動に関わる意識調査」が記憶に新しい。


この調査の目的は、①「就職失敗」が原因・動機とされる20代、学生・生徒等の自殺者が増加している背景にあるものは何か。その一端を、就活や働き方、社会に対する価値観/意識についての調査をもとに探る②生きづらさ、生きにくさ、就活に対する馴染めなさを感じる学生の声を少しでも汲み取り、発信する③就活に関わる諸問題を提起するの3点であった。調査の対象となったのは、大学3年生から修士2年生(+専門学校1年生が2人)の計121人で、こちらの調査票にある設問に答えたらしい(http://www.lifelink.or.jp/hp/Library/130330_shukatsu_06_chousahyo.pdf)。


中でも目を引いたのが「友人や知人との関係」に関する調査結果。「あなたの就職活動に役立っている情報源は何ですか」という設問に対して「友人・知人」と答えた人が84人とトップだったのだが、一方で「あなたにとってプレッシャーとなっている情報源は何ですか」という設問に対して「友人・知人」と答えた人も62人でトップだったのだ。つまり就活生にとって自身の友人は、自分の心の支えとなっていると同時に自分を追い込む存在ともなっているのである。


ここでいう「(自分にとって)プレッシャーとなっている情報」とは具体的にどのようなものを意味するのか。答えは一つではないだろうが、参考になるのが「(就職活動に)とても不安がある、やや不安があるを選んだ方にお聞きします。それはどのようなものですか?」という設問に対する3位の回答だ。それは「周囲から自分だけ取り残されてしまうのでは」というものである。換言すれば、これは「周りの友人が内定を取っていく中で、自分だけが内定を取れず就活をし続けるのではないか?」という不安といえる。これを踏まえると「(自分にとって)プレッシャーとなっている情報」とは「友人の選考の進み具合」、もっと言えば「友人の内定情報」と称して間違いないのではないか。


確か作家の朝井リョウさんが「就活中は人間が歪む」という趣旨のことを言っていたけれど、これはその通りだと思う。正確には完全に歪むというよりは、「今まで通りの自分」と「就活を通じて歪んだ自分」が混在している状況があるといえるような気がする。例えば、友人が早く内定を取ったことを聞いたら「良かった」と思うと同時に、どこかしっくりこない感情を胸の中に秘めるという経験をした人は少なくないのではないか。あるいは友人が最終面接に臨むのを聞いたら「がんばれ」と思うと同時に「落ちてくれないかな・・・」と少しは思ってしまったり。まぁ、精神的に強い人は純粋に友人の成果を喜べるのだろうし、残念ながら人間がとことん歪んでしまった人は「あいつの成功なんかどうでも良い、面白くない!」と思うのかもしれないけれど。 


難しいのは、こうした問題には「悪者」がいるわけではないということ。例えば「合否連絡が合格者だけにしか来ないこと」に悩んでいる就活生が多くいるということならば、「企業」を悪者にして「合否連絡くらい、ちゃんとしろ!」と批判することが一応可能であるが、この記事で取り上げている問題は「○○に~なことを改善してほしい」という提言を編み出せない。少なくとも僕は、解決策を何も思い浮かべることが出来ない。企業がガンガン人を雇えれば「取り残される就活生」を生み出さずに済むのかもしれないけれど、そんな中身が無いことを解決策として述べても仕方が無い。


ただ少なくとも、本調査を通じて就活生の心理状態が可視化されたのは良いことなのは間違いない。ライフリンクのホームページに調査の全てが掲載されているので、ぜひ多くの人に目を通してほしいと思う。

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「僕たちはジムである」と主張している人からガンダムを目指しているかのような雰囲気が漂っている件

過去記事「常見陽平さんの"有料メルマガ撤退宣言"を、"意識高い系という病"にある記述を参考に読んでみた」に、「ゆきち」さんという方から「以前から常見さんの言動はどこかおかしいなと思いつつもうまく言葉に出来なかったのですが、このブログを読んでその違和感の原因がわかりすっきりしました」というコメントを頂いた。ありがとうございます。「ゆきち」さんが具体的に常見さんの文章のどのような点に違和感を覚え、そして如何にして違和感をすっきりさせたのかは定かではないが、常見さんの文章に違和感を覚えるという感覚は個人的にはよく分かる。


そして文章量の都合上過去記事には書かなかったが、実は常見さんの有料メルマガ撤退宣言(http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130504-00010000-agora-soci)には、もう一つおかしいと思えるポイントがある。それは常見さんが自身のメルマガの読者数が伸びなかったことについて、やたらとへこんでいることだ。「私自身、有料メルマガを出すほどの人気著者ではないということだろう。早かったのだと思う」、「本当に薄っぺらい人生だった。今までありがとう」とがっかりしている。


しかし、そもそも常見さんは「"意識高い系"という病」で次のように述べていた。

たまにいるのが、一般人にもかかわらず、メールマガジンを立ち上げる人である。はっきり言って、その人のどうでもいい日常なんて知りたくもない

これが本心ならば、別にメルマガの読者数が増えないという状況下でも「考えてみれば、俺のどうでもいい日常や考え方なんか知りたくないよな。ましてや、お金を払って知りたがる人なんかいるわけないよな・・・」と思うのが自然ではないか。それにも関わらずメルマガを立ち上げ、且つ読者数が増えないことにへこんでいるということは、常見さんが自分のことを「一般人」だと思っていないことを意味していると言えそうだ。


ただそうすると、今度は常見さんの主力商品「僕たちはガンダムのジムである」のコンセプトと矛盾してきてしまう。この本は「世の中は1%の"すごい人"ではなく99%の"その他大勢"が動かしている」というメッセージを軸に据えた本なのだが、その中で「僕たちはガンダムのジム(注:ここでいう「ジム」とは「普通の人」のこと)である。そんなことは考えたことも無かったかもしれない。あるいは、薄々気づいていたかもしれない。ひょっとすると受け入れがたい事実だろう。でも、あらためて気づきたい。僕たちはガンダムのジムであると。あえて言おう、ジムであると」と非常にしつこく読者に「僕たちはジムなんだ」と訴える箇所がある。その上で後書きでは「ジムであることの誇りと責任を今こそ持とうではないか」と述べている訳だけれど、これらの記述を踏まえると常見さんに対して「"僕たちはジムである"とか言っておきながら、当の自分のことはガンダムだと思ってるんじゃないですか?」というツッコミが浮かぶというわけだ。


つまり、自分のことを「ジム」だというなら「メルマガの読者が増えないからってへこむんじゃないよ」という話になるし、自分のことを「ガンダム」だと思っているのならば「僕たちはジムなんだ」と語りかけてこないでほしいという話になる。「僕たちはガンダムのジムである」のレビューに「ジムが大切と言ってる著者だって、ガンダムを目指しているように見える」というコメントがあるけれど(http://www.amazon.co.jp/review/R3MHM632MBMD43/ref=cm_cr_pr_cmt?ie=UTF8&ASIN=486491012X&linkCode=&nodeID=&tag=#wasThisHelpful)、これは後者の話に対応するコメントといえる。これも常見さんの文章から漂ってくる違和感の一つだろう。 


個人的には常見さんの文章にはおかしな点がたくさんあると思っていて、だからブログで取り上げる機会が増えるという事情がある。常見さんの文章・主張そのものはあまり役に立たないと思うけれど、「批判的に物事を見る力」を養うに際して入門の教材にするにはちょうど良いんじゃないかと思う。

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「大学は就職予備校じゃない」という意見表明をもって、大学が「産業界の価値観」に完全に飲み込まれることを防ごう

一つ前の記事に、「名無し」さんから「金沢星陵大学のような学問の場としてではなくあからさまな就活予備校になった大学への意見を聞いてみたいです」というコメントを頂いた。正直、金沢星陵大学については本当に何も知らないので下手に何かを言うことは避けたい。ただ「名無し」さんの言う「あからさまな就活予備校になった大学」への嫌悪感には少なからず共感できるということは述べたい。


「名無し」さんが「あからさまな就活予備校」という言葉をどのような意味で使っているかは正確には分からない。しかしコメントを読む限り、恐らく「資本主義社会に望まれるスキルないし知識を教え込む大学」という意味として使っていると僕は認識している。金沢星陵大学が実際にそのような大学なのかは僕には分からないが、このような大学に対しては「賛成」と「嫌悪感」という明らかに相反する気持ちを同時に抱いている。


なぜ「賛成」という気持ちを抱いたのかといえば、まさに一つ前の記事で述べたように、僕が「大学も、社会で生きていく上で役に立つ能力を授ける場としての役割を担うべきだ」という考えを抱いていることによる。換言すれば、これは「大学は資本主義社会に望まれるスキルないし知識を授ける場であるべきだ」という主張といえる。このような主張をしておいて「あからさまな就活予備校」を全否定するのは矛盾にも程がある(笑)


一方でなぜ「嫌悪感」という気持ちを抱いているのか。それは僕が「大学が安易に産業界からのニーズに迎合して良いのか?」という考えを抱いているからだと自己分析している。もっと言えば、大学は産業界からの要請に応えるだけでなく、自ら産業界に「あなたたちは気づいていないけど、~な学問には~な価値がある」と主張するくらいじゃないといけないのではないか?という想いがあるのだ。 


思うに、単に産業界のニーズに応えるだけなら、企業自ら大学を作って、そこで必要な教育を学生に提供するのが手っ取り早いという話にならないか・・・と考えたところ、実際に既に同様のエントリーをブログに書いている人がいたことが分かった(「企業が大学を作ればいいのでは」)。特にユニクロなんかは大学1年生を採用の対象にするくらいなら、いっそのこと「ユニクロで活躍するためのスキルを身につけることを目的とした教育機関」を作って、そこで一から人材を育てれば良いと言えそうだ。


このような動きが起こること自体は、別に否定すべきものではないと思う。しかし大学が、「産業界が考える"役に立つ"こと」を鵜呑みにし、その「役に立つこと」を教え込むという流れに飲み込まれてしまうことには違和感がある。そして、この違和感の背景にあるのは「産業界が考える"これは役に立つ"、"これは役に立たない"という判断は本当に正確なのか?」という問題意識だ。言い換えれば、「産業界も、そして僕ら一人ひとりも所詮馬鹿なんだから、僕らが"役に立たない"と判断したものの中に、実は社会を劇的に良くするものがあるんじゃないか?」という疑問があるといえる。


「大学は就職予備校じゃない」という意見の表明は、コメント欄で「ななし」さんが述べているような現状に照らすと確かに現実離れしている一面はある。あるいは、脱社畜ブログさんみたいに「大学は、そもそも学問をするところであって、就職活動の準備をする施設ではない。会社に入ってから役に立つことを教える義務は大学にはない」とまで言い切ってしまうのはどうなのかとも思う(http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2012/09/08/192535)。しかし一方でこのような意見の表明は、大学が「産業界が考える、役に立つもの」という尺度に飲み込まれることを批判する機能を果たすという意味では有意義なものと言えるのではないだろうか。

「大学は就職予備校じゃない」という意見表明をもって、大学が「産業界の価値観」に完全に飲み込まれることを防ごうという意見に共感してくださった方は、もし宜しければクリックをお願いします
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「人を育てる機能をどこが担うか」という課題

ジョブウェブの佐藤孝治さんが著書「就活廃止論」で問題提起したことの一つは「人を育てる機能をどこが担うか」というトピックである(http://koji.jobweb.jp/?p=3672)。


この問題提起の背景は、同じく佐藤さんの記事「企業から人材育成力が失われた」を読むと理解しやすい。従来は企業が人材を育てる機能を担ってきたけれども、現在は企業が人材を育てるコストを負担することが難しくなってきているという話だ。俗に言う「"即戦力"を求める動き」というのは、このような事情のことを言い表しているといって良い。


正直、実際のところ企業がどのくらい人材育成にかけるコストを減らしてきているのかは僕には分からない。しかし当ブログにも、例えばwilliam yaminさんが、高知県の建築業界が近年教育コストのかかる新卒採用を忌避する傾向があり、以前ならいきなり正社員として採用されていた「工業高校で建築専攻」だったような学生が正社員になれなくなってきているという事情を教えてくださっている。


この事情を受けてwilliam yaminさんは「新卒一括採用の持続可能性に疑問を投げかけるべき」と問題提起していたが、本当にその通りだと思う。これまでは企業が「未経験の若者を自分で育てるから」という考えを持っていたわけだが、企業がその考えを持ち続ける可能性が減少してきている以上、企業外における職業訓練機会をいかに整備するかという点を考えるべきではないか。ここでいう「企業外」というのは公的な機関でも良いし、大学でも構わない。


一方で、常見陽平さんがハフィントンポストに寄稿した記事で述べたような「政府、および経済団体が、このたび就活を後ろ倒しする意図について"学生生活で存分に成長してもらいたい"というものがある。聞こえはいいが、ややうがった見方をすると、企業が人材を育成する余裕がない中、またこれが新卒の採用要件が高度化するのにもつながっている中、"大学時代に就活のために、何かやってこい"という話にもなりえないか」と懸念を示す意見もある(http://www.huffingtonpost.jp/yohei-tsunemi/post_4755_b_3227761.html?utm_hp_ref=tw)。しかし個人的には、この懸念はただの「人気取り」に過ぎないと思っている。


大体、企業が人材を育成する余裕を失っているにもかかわらず、学生が今まで通りあくまでも「ポテンシャル」を武器に企業にエントリーする流れを肯定する意味が全く分からない。企業からしたら「だから、人を育てる余裕が無いって言ってるだろ」としか思えないのではないか。常見さんが自身の懸念を押し通すなら「何だかんだで企業は人を育てる余裕がありますよ。だから、新卒の採用要件を高度化する必要はありません」という論証をしないと筋が通らないと思うけれど、おそらくそれは無理でしょう。


僕、そして恐らくwilliam yaminさんが考えるのは「確かに従来のポテンシャル採用と比べて採用要件は高度化するけれど、その代わり就活生にどのような資質を求めるのかは明確にするし、且つその資質を磨く環境を企業外に整備する」という姿だ。そしてこの姿を具現化するためには「人を育てる機能をどこが担うか」という点を考え直す、具体的にはその機能を企業に専属的に担わせるのを止めて大学などの教育機関にもその機能を担わせることが必要だ。


「人を育てる機能をどこが担うか」という観点から就活問題を捉える視点が必要だという意見に共感してくださった方は、もし宜しければクリックをお願いします
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常見陽平さんの「有料メルマガ撤退宣言」を、「意識高い系という病」にある記述を参考に読んでみた

GW中ブログ更新を休んでいた間、常見陽平さんの「有料メルマガをやめました 我が動員とマネタイズ敗北宣言」という記事が話題になっていた。約半年前に「ウェブの有料コンテンツでマジで儲けるためのコツ メルマガ編」と題した記事を書いていた常見さんであったが、その記事に書いたコツを実践できなかったのか、それともそのコツがただの出鱈目だったのか、結果としてメルマガでマジで儲けることは出来なかったようだ。


なぜこの記事が話題になっているのかというと、特に「(メルマガの)読者は数十人だった。売上が月1万円を超えることはほぼなかった」という告白が大きいようだ。これが「常見さんほどの人でそのくらいの読者数しかいないなんて、どれだけ厳しい世界なんだ」という驚きを生んでいる訳だ。僕としては「常見さんの文章の質を考えると、読者が数十人いるだけマシなんじゃないか」としか思いませんが(笑)


それにしても、常見さんの記事には「他の著者のメルマガを拝読し、自分のメルマガの至らない部分を見せつけられ、心が辛くなってしまった」、「だんだん、有料メルマガを出すことが精神的に辛くなっていった。"すり減らない働き方"なんて名前の本を出しているのだが、私自身がややすり減ってしまっていたのは事実である」、「私自身、有料メルマガを出すほどの人気著者ではないということだろう。早かったのだと思う。運営会社の発行メルマガ一覧を見ても、格下であることは明らかだった」、「本当に薄っぺらい人生だった。今までありがとう」などと、一見情緒的で謙虚さに溢れた記述が散見される。これに好印象を抱く人は多くいるかもしれないが、そのような人は一度、常見さんが著書「意識高い系という病」で記した次の記述に目を通すべきである。

もうひとつ、著者がよく使う手法がある。それは、「コンプレックスをさらけ出すことにより共感を得る」というものである。例えば「幼い頃から親の暴力を受けて育つ」、「会社が倒産し、借金を背負う」、就活に失敗し、フリーターとして職を転々とする」、「劇的にモテず、彼女いない暦=年齢」、「成功を夢見て起業を繰り返すも失敗に終わる」などである。「この人苦労してるんだろうなぁ」、「成功者に見えるけど、大変だったなぁ」、「オレと境遇、一緒だ」などと思わせ、共感を得るわけである。これは処世術であるが、確かに自分の弱いところをさらけ出すと、相手が共感してくれるというのはよくある。このように、ビジネス書の著者がやっても意識が高すぎて香ばしい行為を、一般人がソーシャルメディアなどのプロフィールに書いているのだから、タチが悪い(中略)就活のエントリーシートではあるまいし、やりすぎだと思うのは私だけだろうか。(p.61-62)

何が「やりすぎだと思うのは私だけだろうか」だ(笑)自分もやってるじゃないか。


誤解しないでほしいが、そもそも僕は「コンプレックスをさらけ出すことにより共感を得る」姿勢が「意識が高すぎて香ばしい行為」とは思わない。だから、常見さんの記事に「自分のコンプレックスを晒すような記述」が見られること自体は特に問題ないと考えている。


しかし、常見さんがやっていることは「コンプレックスをさらけ出すことにより共感を得ようとする他者を批判しながら、自分はちゃっかりそのような手を使う」ということだろう。「だったら初めからそのような批判をするんじゃない」というのが僕の考え。「人がそのような手を使うのは香ばしいけど、常見さんがやるのは良いと思う」という異次元の感性を持っていない限り、この点に違和感を覚えずにはいられないはずだ。


過去記事「<ネタ>"意識高い系"という病という本の記述が"いちゃもん"のオンパレードだった件」で詳しく書いたけれど、常見さんは一見冷静にものを見ているようで、実はただ節操無く「いちゃもん」をつけていることが多い。その上、自分がその「いちゃもん」をつけた行為をやっているのだから、もはや救いようが無い。そんな人の有料メルマガの読者が少なかったというのはむしろ良いことなんじゃないだろうか。「常見さんほどの人がなぜ読者を集められなかったのか・・・」と感じた人は、正直常見さんを過大評価しすぎではないか。

「コンプレックスをさらけ出すことにより共感を得ようとする他者を批判しながら、自分はちゃっかりそのような手を使う」常見さんの姿勢はせこいという意見に共感してくださった方は、もし宜しければクリックをお願いします
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