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過労死ラインを超える時間の三六協定をも受理する国

今月21日に、「新興プランテック」という会社に勤務していた男性が過労自殺した件に関する裁判の判決が下された。この件では、会社と労組が150時間、繁忙期には200時間まで残業を延長できるとする三六協定を結んでいて、男性は2008年6月に月160時間、7月に210時間を超える残業をしたことが原因で命を絶つに至った。男性の母親は毎日新聞の取材に対して「過労死ラインを超える残業を受け付けるのはおかしい。きちんと見直すべきだ」とコメントしている。


肝心の判決の中身だが、東京地裁は、会社には安全配慮義務違反があったとして2270万円の支払いを命じたのに対して、国と労組への請求は棄却した。毎日新聞によると、国と労組への請求は裁判の焦点と言えるものだったらしい。具体的には、労基署の責任が認められるかどうかが裁判の一つのポイントだったということなのだと思う。


2011年2月の日経新聞の記事によると、この裁判の原告側弁護士は、月200時間という残業協定を会社側に是正を求めないまま受理したことをもって労基署の責任を問う方針を固めていたことが分かる。前回の記事でも触れたように、直前の1ヶ月に100時間以上の残業・直前の2~6ヶ月に平均80時間以上の残業をしていれば厚生労働省が定める「過労死ライン」を超過していることになる訳で、勿論月200時間というのも余裕で過労死ラインを超えている。原告側弁護士からすれば「なんで、そんなものを受理したの?」という問題意識があったということだろう。


これは前回の記事のコメント欄でwilliam yaminさんが述べていた疑問でもあった。

そもそもなんで厚生労働省が定める基準を超える労働時間を定めた36協定を労働基準監督署が受理しているのかという点も疑問です。労働者代表選出の妥当性についてはすぐに判断するのは難しいにしても、設定された時間が基準内かどうかなど一目瞭然のはず。基準を超えた内容の届け出など突っぱねるということは出来ないものなのでしょうか。それとも労使合意に省庁が口を出すべきでないというスタンスなのでしょうか。それこそ実態に即してないと思うんですが。

「新興プランテック」のケースで言えば、東京新聞が「過労社会 止まらぬ長時間労働<中> 月200時間招いた死 残業規制"例外"で骨抜き」という記事で取り上げた次のような事情が答えとなる(http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-3649.html)。

新興プランテックのような建設業は労基法の長時間労働規制の対象外とする「例外規定」があるからだ。トラックやタクシーの運転手も同様で、労使の合意があれば何時間でも働かせることが可能だ。そのせいか過労が原因とされる脳・心臓疾患の労災認定数は、運輸業と建設業が毎年上位を占める。例外規定を設けている理由を厚生労働省は「納期前などに仕事が急増する可能性がある業種だから」と説明する。遺族代理人の川人博弁護士は「どんな仕事にも繁忙期はあり、一部の業種のみ特別扱いする理由はない」と反論する

なお、この東京新聞の記事だがこの後「業種による例外だけではない」と、一般論として労使合意に基づく協定を結んでいる限り、現行法上労働時間が青天井になり得る旨を指摘している。この点について、例えばposseの今野晴貴さんはsession-22というラジオ番組において、荻上チキさんからの「なんで月300時間の三六協定を国は受理するのか」という問いかけに対して「(受理を拒むための)法的な規定がない」と答えていた。また少し調べてみたところ、この点に関して次のような解説を目にした(http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20131015 なお、ブログ記事本文ではなくコメント欄の記述です)。

Yosyan先生が言及されているように、三六協定と労基署の関係は、法律上は「届出」であって「許可」ではありません。ですので、労基署は届けられた三六協定について受理を拒否することが出来ません。どんなトンデモ長時間の協定であっても、労働者代表が協定を応諾した署名捺印などが揃っていれば、労基署は受理せざるを得ません。ただし、労基法36条の規定とその詳細を定めた労基則16条、16条の2、17条の規定に反する協定、すなわち労働者の過半数代表の選出に疑念がある場合、労働者代表の捺印が捏造と疑われる場合、1年を越える期間について定めた協定、適用対象となる業務の種類や従事する労働者の特定が為されていない協定などは、届出事項の「不備」として不受理とされます。ですが、特別条項を加算した場合の、年間の延長労働時間の長さをもって不受理とする、労基法上の根拠はありません

・・・と、こういうことらしい。さらに前回の記事で「william yamin」さん・「toito」さんへのコメント返信の中で紹介した解説に加え、労働政策研究・研修機構の研究員・濱口桂一郎さんの「労基法32条の上限(1日8時間、週40時間)は36条の労使協定によって法律上上限なく延長できる」という解説をも踏まえると(http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/wg2/koyo/131011/item3.pdf)、十中八九「労基署は、労働時間の長さを理由に三六協定の受理を拒否できない」という理解で間違っていないのだと思う。そして、この理解が正しいのならば、前回の記事の主張と重なるけれども、現行法上のルールの不備を特定し、それを是正するというアプローチが求められると言える。

「過労死ライン」を超過した労働時間も合法な現状のルールの是非を問い直すべきだという意見に共感してくださった方は、もし宜しければクリックをお願いします
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「過労死ライン」を超過した労働時間も合法である現状のルール

少し前に「脱社畜ブログへの批判に対して"嫉妬の表れ"というレッテルを貼る人たち」という記事を書いたけれど、当の僕自身も次のように言及されたことがある。この「脱社畜ブログ流"やりがい搾取"批判のおかしさ」という記事は、脱社畜ブログが「ルールの範囲内で経済合理性を追求した労働者(埼玉県の公立学校教員)」のことは「労働者を批難するのは筋違いだ。批難すべきは、経済合理的に行動すると学年の途中で教員の交代が生じざるを得ないようなシステムの方である」という趣旨の理屈をもって擁護したのに、一方で「ルールの範囲内で経済合理性を追求した企業(ヨーカ堂)」のことは「あまりにも典型的な"やりがいの搾取"」と批判していることのおかしさを指摘したものである(詳しくは当該記事を読んでいただければ)。上記のツイートの主は、恐らく「この記事でなされている批判は屁理屈に過ぎない。そんな屁理屈を持ち出してまで脱社畜ブログを批判しようとしている理由は、脱社畜ブログに嫉妬しているからなんじゃないか?」と考えているのだと思われる。


個人的には記事を読み返しても、なぜ屁理屈と評価されたのかはよく分からなかった。むしろ、ブーメランになっているのは脱社畜ブログの文章の方なのではないかと感じた。なぜなら、脱社畜ブログは埼玉県の公立学校教員のケースを「システムに瑕疵があるのだから、教員が自己の利益の最大化を求めて行動することによって不都合が生じても仕方がない」と評価している訳だけれど、こうした評価の仕方こそが酷な労働環境を生み出す源となる場合があるからだ。


象徴的なのが、日本の労働時間規制を巡る話である。NPO法人POSSE事務局長・川村遼平さんは、現在の法規制の問題点について次のように解説している(http://blog.goo.ne.jp/posse_blog/e/65915d4ee2f828f60a41f508e09ac90b)。

『POSSE』でも何度も話題になっていることですが、日本には労働時間を物理的に規制する法律がありません。一応「1日8時間、週40時間まで」と労働基準法で上限が規定されていますが、「三六協定(さぶろく協定)」を労使間で交わすことで簡単にこの規制を逸脱することができます。しかも、三六協定で新たに設定する労働時間には、何時間までにしなければいけないという規定がありません。そのため、多くの企業で三六協定が交わされ、長時間労働は「合法に」横行しています(中略)唯一多少なりとも機能しているのは、厚生労働省が定めた「過労死ライン」です。たとえば、継続して月に80時間以上の残業をしていた労働者が脳・心臓の病気にかかって亡くなると、その病気の原因は過労だった(=労災として扱われる)ということになります。この基準が「過労死ライン」というもので、直前の1ヶ月に100時間以上の残業・直前の2~6ヶ月に平均80時間以上の残業をしていれば、「過労死ライン」を超過しています。生きて働かせている間は「合法」だけれども、その人が亡くなったときには「会社の責任」だとなるわけです。

この解説から分かるのは、現在のルールでは厚生労働省が定める「過労死ライン」を超過した労働時間ですら合法であるということ。ただこのルールについて、城繁幸さんは「ブラック企業大論争」において次のように述べている。

会社が際限なく従業員に残業させるのは、「ブラック的」といっても合法だからです。企業は、ルールのメリットを最大限活用しているだけですから。競争環境の下でのごく自然な適応ともいえるでしょう。仕事の量が多いからと言って2人雇うよりも、1人雇って100時間残業させた方が安上がりなわけですから。

勿論「いくら法に反していないからと言って、過労死の恐れがある労働時間はおかしいんじゃないか?」と批判することは可能だし、僕も批判するべきだと思っている。しかし一方で、現状「過労死ライン」を超える労働時間が違法とは限らない以上、城さんのように「企業は、ルールのメリットを最大限活用しているだけ」と評価することも十分可能である。脱社畜ブログが埼玉県の教員を擁護したエントリーのタイトルは「経済合理的に行動することが、なぜ批難されなければならないのか」というものであったが、城さんが指摘するように、現状こうした考え方が「会社が際限なく従業員に残業させる」といった酷な労働環境を生み出すことにつながり得るのである。


こうした問題点を受けて、「労働時間を物理的に規制する法律がない」ことをルール・システムの不備と捉えた上で「労働時間を規制しよう」・「"仕事から帰ってきたら、次の仕事までに最低でも11時間は休まなければならない"という休憩時間に関するルールを設けよう」といったEUのルールを参照にした提言や、城さんが主張するような「労働市場を流動化しよう」という提言がなされている。いずれも「既存のルールに不備があるから、それを修正しよう」というスタンスで、個々の企業を叩くよりも「より適切なルールを作る」ことを意識した議論がなされていると言える。今年は「ブラック企業」という言葉が大いに話題になり、即ち日本の労働環境の問題点が一定程度広まった年だったと思うので、来年はその問題点を解決するためのルール作りに関する議論が進めば良いと思っている。

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日野瑛太郎さんは言葉を恣意的に解釈することで、強引に企業を悪者に仕立て上げようとしていないか

ここ2・3日「脱社畜ブログ」と検索して当ブログにアクセスする人が急増しているけれど、その理由は東洋経済オンラインで脱社畜ブログ管理人・日野瑛太郎さんの連載がアップされているからだと思われる。連載のタイトルは、来年1月に出される新刊のタイトルと同じで「あ、"やりがい"とかいらないんで、とりあえず残業代ください」である。


前回の記事で脱社畜ブログに対する批判が増えている旨を書いたけれど、この連載の内容に対しても批判の声が多く上がっている。連載の第2回は「経営者目線」について取り上げたもので、そこで日野さんは「経営者目線を持て」という言葉を「薄給でも我慢して働くべき」・「我慢してサービス残業をするべき」というように解釈しているのだが(http://toyokeizai.net/articles/-/26314?page=2)、これに対して「これだからアスペは…」というツッコミがなされている(http://b.hatena.ne.jp/entry/toyokeizai.net/articles/-/26314)。


このツッコミをした人は、具体的には「("経営者目線を持て"というメッセージは)"細分化された目先の社内向け作業に没頭するばかりではなく、時には客から金を頂くという基本に立ち返り、外から儲ける話を考えよう"程度の話だろ」と言っており、要は日野さんの「経営者目線を持て」というフレーズの解釈が穿っている旨を指摘している。他にも「経営者視点というのは大局的な経済の流れを意識しろということだろう」というコメントもある。


勿論、これらの指摘が一般論として正しいのかは疑問の余地がある。しかし一方で、日野さんの記事にも別に「経営者目線を持て」という号令をきっかけに「薄給でも我慢して働くべき」・「我慢してサービス残業をするべき」という規範が社内に出来た例が書かれているわけではないので、日野さんの解釈に怪しさを感じたり、「"経営者目線"という言葉の解釈がおかしい」と批判したりすること自体は妥当だと思う(誤解しないでほしいが、「薄給でも我慢して働くべき」・「我慢してサービス残業をするべき」という環境の会社自体はあるだろうが、その環境が「経営者目線を持て」という号令を元に作られたものかは日野さんの記事からは分からないということ)。


個人的にはこの他にも脱社畜ブログの内容も含め、日野さんは言葉を恣意的に解釈することで強引に企業を悪者に仕立て上げることがあるように思う。例えば当ブログでも最近触れたが、日野さんは文脈や会社の労働環境の実態を踏まえることなく、ある社長が発した「社会に出ると辛いことが多い。でも、絶対に逃げてはいけない」というメッセージを「"当社はブラック企業です!"と言っているようなもの」と評価したりしている(http://lingmu12261226.blog10.fc2.com/blog-entry-535.html)。詳しくはリンク先の過去記事を読んでもらいたいが、簡単に言えば「社長は"仕事が上手くいかなくても諦めるな"程度のことしか言っていないのかもしれないのに、安易にブラック認定するのは如何なものか?」という疑問を呈している記事である。


あるいは、脱社畜ブログの「学生気分は永遠に抜かなくていい」という記事も例として挙げられると思う。この記事は「学生気分が抜けていない」という説教文句を題材にして「"学生気分が抜けていない"という説教があるけど、学生気分を持ち続けると"組織の一員であることを絶対視せず、組織と自分を切り離して考えられる"、"人間関係や仕事が辛くなったら、さっさと逃げることができる"という効能がある」という主張を展開したり、「学生気分が抜けていない、と一括りに言われると、過去の学生生活が全否定されたようで僕は非常に悲しくなる」と嘆いたりするものである。これに対してはてなブックマークのコメントの中に「"学生気分"云々は基本的ルールを守れないことを指している。この記事は曲解して脱社畜と言いたいだけ」と日野さんの言葉の解釈がおかしい旨を指摘するコメントがある(http://b.hatena.ne.jp/entry/dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2012/10/27/144110)。要は「普通"学生気分が抜けていない"というフレーズは、別に学生生活を全否定する意味じゃないでしょ」というツッコミがなされているということ。こうした例を見ると、日野さんの言葉の解釈に注意深くなる必要性はあるように思える。


誤解しないでほしいが、日本の労働環境に問題が大いにあることは事実なので、企業の問題ある行為はきちんと批判するべきだ。しかし、仮にその批判が言葉を恣意的に解釈することで展開されたのならば、その批判は「妥当性に欠ける」として切り捨てるべきではないだろうか。企業を叩いている言説だからと言ってそれを雰囲気や印象論で支持するのではなくて、各主張の妥当性をきちんと検証する姿勢を持つ人が増えてほしいと思う。最近のはてなブックマークのコメントを見る限りそういう姿勢を持つ人が皆無という訳ではないことが分かるので、そこに希望を感じている。 

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脱社畜ブログへの批判に対して「嫉妬の表れ」というレッテルを貼る人たち

このブログではこれまで何度も脱社畜ブログを批判してきたが、ここにきて脱社畜ブログの文章に違和感を覚える人が増えてきている。例えば「労働者を無駄に煽っている」という感覚を抱いている人たちが増えているようで、実際はてなブックマークのコメントを見ると「こいつはただの煽り屋」(http://b.hatena.ne.jp/entry/dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/12/12/205904)、「なんか最近ポジショントークというか煽り風味が強くなってきたねえ」・「当初より無責任な煽りが増えてきてないか」(http://b.hatena.ne.jp/entry/dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/12/16/205946)というものが見られる。


この度「煽っている」と評されている脱社畜ブログの記事は、いつも通り企業を叩く内容となっている。つまり、脱社畜ブログ読者にとって都合が良い内容であるはずなのだが、それでも記事に対してきちんと批判がなされている。これは「企業を叩き、労働者を利する言説であっても、それがおかしなものである場合はきちんと批判する」という姿勢を持っている人が一定数いることの現れだと思うので、それは素晴らしいことだと思う。


なぜここ最近の脱社畜ブログの記事がおかしいと見なされているのか。はてなブックマークのコメントを見る限り、脱社畜ブログの「企業が欲しいのは優秀な人よりも洗脳しやすい人」という記事に関して言えば、その理由は「内容が雑」・「(脱社畜ブログの)見方が極端・穿っている」というものだと言える(この「見方が極端・穿っている」という感覚から「煽っている」という感想も出てきているのだと思われる)。


ここでいう「内容が雑」というのは「記事の内容に妥当性があまり無い」と言い換えることが可能だと思う。例えば、はてなブックマークのコメントにある「オッサン、採用担当手伝ったことあるけど、優秀な人を選ぶことはあっても、洗脳しやすい人を選んだことは一度もないけど」というコメントが、記事の内容に妥当性が欠けている可能性を示している。


また「見方が極端・穿っている」という指摘は、記事の論調があたかも一般的に日本企業が社員を洗脳しにかかっているかのようになっていることが関係しているだろう(記事の最後で「会社が本当に求めているのは洗脳しやすいソルジャー社員なのだ」と強調する形で言っているので)。だからこそこれに対して、「社風云々も合う、合わないであって、洗脳しやすいとはまた観点が違うけどなあ」・「洗脳っていうとアレだが、社内を乱さない人というのは理解できる。言葉の選び方がちょっとな」と、「洗脳」という言葉の使い方がオーバーであるという指摘がなされているのだろう。


このように脱社畜ブログへの批判は妥当だと思うのだが、なぜかこうした批判に対して「嫉妬だ」と言う人たちがいる。例えばはてなブックマークのコメントにも「本出した途端ズタボロに叩かれるようになってワロタ。こういう嫉妬と妬みを糧に生きてるような人間がクソ労働環境を作るんだろうな」というものがある。また、「怒りはブロガーの栄養」という記事は脱社畜ブログに対する批判が増えている理由として「退職エントリで東大生だということが発覚したから」・「本を発売したから(具体的には「書籍発売のやっかみからか、アンチが急増した気がする」と述べている)」というものを挙げている。


しかし上で示した通り(あるいは、はてなブックマークのコメントを一通り見てもらえれば分かるように)、脱社畜ブログに対する批判が増えているのは、純粋に文章の内容におかしさがあるからだろう。この点、「怒りはブロガーの栄養」では脱社畜ブログを高評価する理由として「暗黙の常識と思われていたことに、明快なロジックで鋭く切り込んでいくから」というものを挙げている。これは裏を返せば記事に「明快なロジック」が欠けている場合は脱社畜ブログを評価する理由がなくなるわけで、この度脱社畜ブログに批判コメントが寄せられているのもその「明快なロジック」が無いからだろう。


別に、脱社畜ブログへの批判に対する再批判を行って脱社畜ブログを擁護すること自体は全然良いと思う。しかし、ここ最近のはてなブックマークのコメントを見た上で脱社畜ブログへの批判を「嫉妬の表れ」と見なして片づけるのはちょっと理解しがたい。一体、何を考えているんだろうと思う。

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辻太一朗 VS 海老原嗣生 ~アメリカでは大学の専攻と職業が繋がっているのか?~

先週の日経新聞に「採用、再び成績重視 三菱商事や富士通、客観評価容易に」という記事が載っていた。これは一部の大手企業が就活生に対して成績表の提出を求めるという、企業が学業の成果に着目して選考を行う動きを報じた記事である。また、10日の東洋経済オンラインの「[社名公開]これが就活で成績を活用する企業だ」という記事には、日経で取り上げられた「新卒採用において成績を見る企業」が載っている。


このように、現在教育と職業との接続の在り方が見直されていると言える。そして、より適切な見直しを行うためには海外の慣行がどうなっているのかに着目することが一定程度有益だと思う。ただ僕が知る限り、専門家の間でアメリカの慣行に関する認識に差異があるので、それを紹介したい。


まず、大手企業が成績を考慮する動きに大いに関わっているNPO法人・DSSの辻太一朗さんは著書「就活革命」でアメリカの慣行について次のように述べている。

アメリカの場合は、学生に対して特に知識を求めます。業界についての知識や職業上の専門知識です。学生はそれらを大学時代に身につけ、入社したらそれを役立てて、すぐに仕事をしなさいというわけです。私の友人にスポーツマネジメントの仕事をしている男がいます。私は彼にどうしてアメリカはそこまで専門知識にこだわるのか、入社してから3か月くらいかけてみっちり研修すればいいのではないか、と尋ねたことがあります。彼の答えは「その程度の知識では役に立たない」というものでした。ですからアメリカの企業は学生の専攻や知識を非常に気にします(中略)まず専攻が畑違いの学生はインターンシップの対象になりません(中略)企業が必要としているレベルの専門知識を持っていない学生は、そもそも選考の対象ではないのです(中略)アメリカには各州・地域ごとに中心的な産業があります。ニューヨークなら金融、デトロイトなら自動車、西海岸ならITといった具合です。大学での教育も、そうした中心産業を意識したものになっています。学生にとって大学は彼らが必要としている知識を与えてくれる場として、ちゃんと機能しているのです。(p.70-71)

端的にいえば、アメリカでは企業が学生に対して専門知識を求め、学生はそれに応えるために大学で猛勉強して知識を習得していくサイクルがあるという話。一方で、海老原嗣生さんは著書「就職、絶望期」でアメリカの慣行について次のように述べている。

実は、大学の文系学部の専門教育は、そのまま直接社会で役立つ可能性はほとんどないという事実。ここをはっきりさせておきたい。それも、日本だけではなく、これは世界共通の話だということも。なぜか、欧米では「大学の専攻と職業がきれいに繋がっている」という幻想が、世の中には広く浸透している。そうした幻想が「日本のように総合職という奇異な雇用慣行を持つからいけないのだ。きちんと採用時点で何の仕事をするか明確にわかる職種別採用なら大学の専攻と企業の仕事が繋がる」と訳知り顔で語る識者を生み出してしまう。しかし、この話を欧米の人事・雇用関係者に語れば、こんな風に鼻で笑われることになるだろう。「アメリカでも、文系の大学を卒業した場合、一番多くの人が就く仕事は営業ですよ。この仕事は、大学のどの専攻と結びつくのですか? 総務や人事の仕事はどうですか?これも専攻など関係ないでしょう。アメリカの場合は、大学卒業後に製造や販売の仕事に就く人も多々います。彼らももちろん専攻など関係ありません。経理やシステム開発でさえ、経営学部や情報工学を卒業しなくてもなれますよ」そうこと文系学部に限れば、圧倒的多数の人間はどこの国でも専攻と関係のない仕事についている。ホンの少数の、例えば法務とか金融とか会計とかマーケティングのスペシャリストのみ、選考と近い就職が可能になる。それも、超上位校を優秀な成績で卒業した人のみ。(p.195-197)

これは辻さんとは逆で、アメリカでも原則大学の専攻と職業は繋がっておらず、繋がっているケースが例外であることを指摘する文章である。これによると、辻さんは海老原さんが「幻想」と評した言説(「欧米では大学の専攻と職業がきれいに繋がっている」という言説)を唱えていることになる。


海老原さんが「なぜか、欧米では"大学の専攻と職業がきれいに繋がっている"という幻想が、世の中には広く浸透している」と言っていることから、欧米では大学の専攻と職業に関連性があると考える人は多くいるかもしれない。少なくとも僕個人としては、そう理解していた。ただ海老原さんの指摘が正しければ、その理解は誤りだということになる。


本の記述を読み比べてみるだけでは、正直どちらの記述にも怪しさを感じる。辻さんの文章は具体的な根拠として挙げられているのは「スポーツマネジメントの仕事をしている男」の話だけ。海老原さんにしても「この話を欧米の人事・雇用関係者に語れば、こんな風に鼻で笑われることになるだろう」と書いており、即ち実際に欧米の人事・雇用関係者の誰かが何かを語ったという訳ではない(海老原さんは「雇用のカリスマ」のはずなのに、欧米の人事・雇用関係者の内、誰か1人からちゃんと直接話を聞けなかったんだろうか・・・)。どうも、事実がはっきりしない。


こうしてみると、海外の就活の在り方について分かっているようで実は分かっていないことを実感する。海外の企業では一般的にどの程度「大学の成績」、「大学でどのような知識を得たか」という点に着目するのか。この点について、もう少し共通認識が深まってほしいと思う。

アメリカでは大学の専攻と職業が繋がっているのか、あるいは繋がっていないのか、よく分からないという意見に共感してくださった方は、もし宜しければクリックをお願いします
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スクリーニングの手間を惜しむ企業が「たくさんの就活生が受けに来る・・・」と嘆くのは筋が違う

新卒採用において就活生から受験料を徴収することを決めたドワンゴ。そんな同社の川上量生会長のインタビューがITmediaニュースに載っており、そこで受験料制度の導入を決めた背景も語られていた(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1312/06/news064.html)。


そのインタビューによると、ここ数年、ドワンゴへのエントリーは数万人を超えているとのこと。当然、受験者全員と会うことは出来ないわけで、スクリーニングの必要が生じる。なぜスクリーニングの手段として受験料徴収を採用したのかというと、普通の会社はやらない手段をもって現在の新卒採用の在り方に問題提起をしたかったという考えがあったという。


僕は過去記事にてドワンゴのやり方に嫌悪感を抱いた旨を記した。ただ一方で、自ら就活生をスクリーニングするための手段を考えて、それを実行したという姿勢については非常に良いものだと思っている。


ドワンゴが採用ホームページで記したように、現在の就活の問題点の一つとしては「就活生がネットを通じて簡単に企業にエントリーできるために、多くの企業を受ける羽目になって疲弊する。企業からしても、多くの就活生を相手にしなければならず負担が大きくなる」というものが挙げられる。そしてその問題に関して、多くの企業に簡単にエントリーできる環境を作った就職ナビや、多くの企業にエントリーする就活生が批判の対象になることがある。具体的にはリクナビに関しては常見陽平さんが著書「就社志向の研究」で批判しているし、多くの企業にエントリーする就活生に対しては例えば「1割がエントリー100社…数を競う矛盾」という批判記事がある。
 

しかし就職ナビがあったり、「とりあえず多くの企業を受けよう」と考える就活生が多くいたりしたとしても、ドワンゴのように独自にスクリーニングを行えば(あるいは求める人物像を明確化することで、その人物像に合わない就活生に「この企業を受けても無駄だ」と思わせれば)、事前に冷やかしで受ける就活生を排除することが出来るのも事実のはずだ。現に、当ブログで取り上げたライフネット生命は「重い課題」を選考プロセスに組み込むことで採用試験の受験者数を抑えているけれど、そういう取り組みもせずに多くの就活生が選考を受けに来る事態を嘆くのはその企業の自業自得ではないか。就活生のスクリーニングをしないんだったらしないで良いのだが、それならそれで多くの就活生がエントリーをしてくることに文句を言うのは如何なものか。悪いのはエントリーしてくる就活生ではなく、スクリーニングの手間を惜しんでいる企業の方だと思う。


ドワンゴの試みによって、就職ナビ・就活生だけでなく採用活動を行う企業にも批判の余地があることが可視化されれば良い。そういう意味では「受験料徴収」という手段に嫌悪感を抱くことは否定できないとはいえ、この度のドワンゴの行動には一定の意義があったと評価できる。

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日本の労働環境を巡る意識のすれ違いが、ブラック企業を巡る議論の停滞やまともな経営者のメッセージの曲解につながり得る

評論家の荻上チキさんがメインパーソナリティを務める「session22」という番組がある。10月21日に、その番組で「ブラック企業対策」をテーマに議論が交わされたのだが(http://www.tbsradio.jp/ss954/2013/10/20131021-1.html)、冒頭に今野晴貴さんが「ブラック企業を巡る議論が噛み合わない理由」について解説をしていた。


その解説がなされた背景には、朝まで生テレビで「ブラック企業」がテーマとなっていた回において、今野さんと荻上さんが他の参加者にブラック企業の存在を説明するのに3時間を要したことがあった。僕は番組を見ていないので詳しい事情は分からないが、要は他の参加者がブラック企業問題の存在をなかなか理解しなかったということらしい。この出来事について、荻上さんは「若者にとってブラック企業問題は"自分が使い捨てられるかもしれない"というリアリティがあるけれど、もはや若者で無くなった人はそういうリアリティを感じないのではないか?」という世代間の認識に差異がある可能性を指摘した。


それを受けて今野さんは、「ブラック企業問題を理解しない人たち」の存在を世代の問題として捉えるよりも「労働市場分断」という観点から捉えるべきだと述べていた。どういうことかというと「若者を正社員として雇い、その後育てていく」という従来型の正社員雇用が成立している労働市場はあり、そういう労働市場に身を置いている人からすると若者が企業を辞めることを「企業はあなたをきちんと育てようとしているのに、なんで辞めちゃうの?」というミスマッチの問題として捉え、企業が若者を潰して退職に追い込んでいるケースを想定しないという趣旨のことを言っていた。


「若者が早期に会社を退職する」・・・まともな労働市場で生きている人はこの文言を「若者の職のえり好み」と捉えるだろうし、人を使い潰す企業で働いていたり日本の労働環境の問題に関心があったりする人は「ブラック企業に使い潰された」と捉えるだろう。今野さんによると、この意識のすれ違いがブラック企業を巡る議論の噛み合わなさを生んでいたのだという。


今野さんが指摘する意識のすれ違いだが、これは「ブラック企業を巡る議論の停滞」だけでなく別の問題も生み出していると思う。それは、ブラック企業問題に関心がある人がまともな経営者のメッセージを歪めてしまう可能性だ。その例として、「脱社畜ブログ」の「会社が辛くなったら、いつでも逃げていい」というエントリーにおける次の記述が挙げられる(なお、「脱社畜の働き方」のp.96-98でも同じような主張がなされている)。

某一部上場企業に入社した知り合いが、入社式で社長からこんなことを言われたらしい。「君たちは、今日から社会人になった。社会人になった以上、『辛くても絶対に逃げない』ということを肝に銘じて欲しい。学生の時と違って、社会に出ると辛いことが多い。でも、絶対に逃げてはいけない。一度でも逃げてしまうと、逃げ癖がついて、立派な社会人になれない」入社式でいきなり社長自らこんなことを言うということは、それだけ逃げる社員が多いということなんだろうなぁ、と思わずにはいられない。社長自ら、「当社はブラック企業です!」と言っているようなものである。僕だったら、その日のうちに逃げる。僕はこの社長とは逆で、「辛くなったら、いつでも逃げていい。やばい時にはすぐに逃げよう」という提言をしたい。前にも書いたように、どんなに優良企業を選んでも、ブラックな部署に配属されてしまう可能性はある。そんなときには、さっさと逃げたほうがいい。我慢して勤めて、それで精神を病んでしまったり、体を壊してしまったら元も子もない。「絶対に逃げない」という考え方は、それによって自分を追い詰めてしまう危険をはらんでいる。逃げ場がないと思うから、どうしても無理をしてしまう。「嫌なことがあったら、いつでも逃げる」と決めておけば、会社や仕事ごときで精神を病んだり、体を壊すことはなくなる

ここでは社長の「学生の時と違って、社会に出ると辛いことが多い。でも、絶対に逃げてはいけない」という発言を「精神を病んだり、体を壊したりする環境でも逃げるな」というように受け取っている。もしかしたらこの解釈は正しいのかもしれないけれど、一方でこの社長は本当にそんなレベルのことを言っていたのだろうか?という疑問も浮かぶ。仮にこの社長の会社が今野さんの言う「まともな労働市場」に属していると言える場合、社長はせいぜい「仕事が全然上手くいかずに苦しむこともあるだろうけど、そこで諦めるな」という程度のことしか言っていないのではないか。


「"辛くても絶対に逃げない"ということを肝に銘じて欲しい」・・・この文言に関しても、まともな労働市場で生きている人はこの文言を「仕事が上手くいかなくても諦めるな」という意味で使い得るが、他方で人を使い潰す企業で働いていたり日本の労働環境の問題に関心があったりする人は「体や心を病んでも逃げるなよ」という意味だと受け取り得る。ここでも日本の労働環境を巡る意識の違いによって文言の意味がずいぶん変わってくることが伺える。


個人的には、文脈や会社の労働環境の実態を踏まえずに「社会に出ると辛いことが多い。でも、絶対に逃げてはいけない」というメッセージを即ブラック認定するのは強引だと感じている。この脱社畜ブログのエントリーを見ると、まともな経営者が善意で発したアドバイスが「ブラック企業礼賛」なものとして捉えられる危険性はあると言えると思う。このことからも、ブラック企業を巡る議論を進展させるためだけでなく、まともな経営者のメッセージが曲解されることを防ぐためにも「この人はどういう文脈をもってこの意見を発しているんだ?」という点に思いを巡らせ、意識のすれ違いを埋める必要がある。

日本の労働環境を巡る意識のすれ違いが、ブラック企業を巡る議論の停滞やまともな経営者のメッセージの曲解につながり得るという意見に共感してくださった方は、もし宜しければクリックをお願いします
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日野瑛太郎さんが謳う詐欺レベルの「脱経済成長論」

前回の記事で、脱社畜ブログ管理人・日野瑛太郎さんの著書「脱社畜の働き方」のレビューを書いた。ただ、当ブログがこの本の内容について触れたのはこれが初めてではない。過去記事のコメント欄で、「脱社畜の働き方」の第5章の内容が話題になったことがあったのである(http://lingmu12261226.blog10.fc2.com/blog-entry-512.html)。


この第5章は、日野さんが考える「これから、こういう社会になっていけばいいな」という理想を記した内容となっているのだが、その中で「経済成長からの卒業」について触れた記述がある。

もしかしたら、「成長」という言葉が持つ美しい響きに騙されているのかもしれない。「成長」という言葉だけ聞くと、無条件にいいもので失うものは何もないかのような印象を受けそうになるけど、実際には経済成長によって僕たちが失っているものはたくさんある。「成長」を支えるために働きすぎて命を落とす人が出たり、家族と過ごす時間が無くなって家族の絆が弱まったり、あるいは育てる時間が無いことを心配して子供を産むことを躊躇してしまったりするのは、明らかに「成長」による「損失」だ。そろそろ僕たちは、経済成長から卒業をしなければならないのではないだろうか。何だかんだ言って右肩上がりのグラフは気持ちがいいし、「もうこれ以上成長しない」と決めてしまうのは後ろ向きに見えなくもない(後略)

この「後略」の後、日野さんは「ずっと経済成長をしていくことを考えるのは現実的ではないだろう」ということも言っている。ただ引用した記述を見ると、日野さんが経済成長の実現可能性を抜きにしても、経済成長を追求することに嫌悪感を感じていることが分かる。逆に、経済成長を止めることで過労死する人が減ったり、家族と過ごす時間を増やすことが出来たり、安心して育児に時間を費やすことが出来たりと良いことが起こるというスタンスであるらしい。


しかし一方で、例えば「経済成長ってなんで必要なんだろう?」という本を出し、経済成長の必要性を訴えている荻上チキさん・飯田泰之さんの「シノドス」コンビの文章に照らして日野さんの文章を見ると、実はかなりとんでもないことを言っていることが伺える。まず、荻上チキさんは著書「僕たちはいつまでダメ出し社会を続けるのか」という本で次のように述べる。

ここでイメージしていただきたいのは、マイナス成長の世界とは「減り続けるパイの奪い合い・削り合いが加速する世界」だということです。どんどん商品・サービスが売れなくなっていく社会で、僕らはより一層の価格引き下げ競争を強いられ、企業は利益の確保に走ります。人を切ったり、正社員を解雇し、非正規雇用が増加する。貧しい人からどんどん苦しくなっていく。格差がどんどん拡大していく社会です。一言でいえば、低成長・脱成長とは、漠然とした風潮としての「競争社会を止めること」どころではなく、むしろ「パイを減らすことで、過当競争を全国民に強いる、「過酷な椅子取りゲーム」のことなのです(p.74)。

この文章の前に、荻上さんは「低成長・脱成長論」に「みんなで分け合う温かい社会」というニュアンスが含まれていると評価している。その上で、実際のところ経済成長を止めて起きる可能性が高い事象は、限られたパイを奪い合う「弱肉強食」の世界なんじゃないか?と指摘しているというわけだ。日野さんが謳う脱経済成長論からも「温かい社会を実現する」というニュアンスを感じ取った人は多いと思うけれど、本人が自覚しているかしていないかはともかく、実際は結構えげつないことを言っているということだ。


これだけでも十分えげつないけれど、そのえげつなさを更に高めるのが飯田泰之さんの指摘だ(http://blogos.com/article/30256/?axis=&p=3)。そもそも日野さんは「職場の雰囲気」という文脈での話であるが本の中で「足の引っ張り合いはもうやめよう」・「他人の幸せにもっと寛容になろう」と主張している。「職場での足の引っ張り合いはダメだけど、一般論としては足の引っ張り合いもOK」というスタンスは考えにくいのでこれを一般論として考えると、飯田さんが呆れる人物像が誕生する。

ゼロ成長で足の引っ張り合いもない社会を目指すべきだというのは、「いま金持ちな人は永久に金持ち、いま貧しい人は永遠に貧乏」という階層固定を認めよというのと同じです。現時点で十分功成り名を遂げた人が、「ゼロ成長でよい」と「足の引っ張り合いはよくない」という主張を同時に語っているのをみると、なんだか微笑ましいですね。本人には悪気はないのでしょうが、それって「何もしなくても俺が(相対的に)裕福なままでいられる社会にしろ」と主張しているのと同じことですから(笑)。

日野さんは「"成長"という言葉が持つ美しい響きに騙されているのかもしれない」と言っているけれど、一体騙しているのはどっちなのか、大いに疑問に思うところである。


さて、この記事のタイトルにて僕は日野さんの脱経済成長論を「詐欺レベル」と評しているけれど、これには2つ理由がある。第一に、日野さんの議論が「経済成長によって失われるもの」は検討しているのに「経済成長をやめることで失われるもの」を検討していなかったからというものが挙げられる。上述のように日野さんは「"成長"という言葉だけ聞くと、無条件にいいもので失うものは何もないかのような印象を受ける」と述べた上で経済成長を追求することのデメリット面を検討したのに、なぜか自身の脱経済成長論についてはデメリット面を記さないでいる。日野さんの文章を見ると経済成長から卒業することで「過労死を防げる」・「家族と過ごす時間を増やせる」というメリットがあり、且つ失うものは何もないかのような印象を受けそうになるけれど(デメリット面が書かれていないので)、実際には大きな問題が起きるのは荻上さんらが指摘した通り。メリットだけを説明して、デメリットを考えないというのはちょっとまずいんじゃないだろうか。


第二に、日野さんの文章には「"成長"という言葉が持つ美しい響きに騙されているのかもしれない」・「何だかんだ言って右肩上がりのグラフは気持ちがいい」とあり、あたかも経済成長を支持する人がノリで成長を支持しているかのように見えるけれど、僕が知る限り経済成長支持者はそんなスタンスではないというものが挙げられる。むしろ「経済成長」は一人でも多くの人が裕福な生活を送ることができるようにするための基礎で、切実に実現が求められているものという論調を目にする。それは、上述の荻上さんの文章を見れば分かるのではないか(なお、飯田さんも同じことを指摘しているし、また評判が良い経済学の入門書「高校生からわかるマクロ・ミクロ経済学」という本でも荻上さんと同様の指摘をしている箇所がある)。端的に、日野さんは「経済成長支持論」を歪めているように思えるし、それは明らかにいただけない。日野さんの文章に魅力を感じた人は、一度経済成長を支持する言説を確認してほしい。

日野瑛太郎さんが謳う「脱経済成長論」は詐欺レベルという意見に共感してくださった方は、もし宜しければクリックをお願いします
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「脱社畜の働き方」・「日本一社員がしあわせな会社のヘンな“きまり”」のレビューを書きました

今回のレビューは、日野瑛太郎さん著の「脱社畜の働き方」・山田昭男さん著の「日本一社員がしあわせな会社のヘンな“きまり”」です。なお、下記のレビューでは触れていませんが「脱社畜の働き方」には「仕事のための仕事のような意味のないものを排除して、本当にしなければならない仕事のみを集中して行うようにすれば、週に3日休むのぐらいは十分達成可能なのではないか(p.238)」という記述があります。そして「日本一社員がしあわせな会社のヘンな“きまり”」には、この記述をほぼ実践したと言えるような例が載っています。その意味では、今回取り上げた2冊の本には多少の関連性があると言えるかもしれません。


●「脱社畜の働き方」(評価:星2つ)

陳腐な問題提起。展開されるのは抽象論ばかり。全体的に質が低い1冊

日本の労働環境・仕事観に疑問を呈した上で、著者の起業体験記・会社外でお金を得るための方法・著者が考える理想の社会と話が進んでいく1冊です。日本の労働環境の問題点を指摘しようとする著者の試みには共感できるのですが、それでも本書を高評価することは出来ませんでした。いくつか理由はあるのですが、その中で本書のメインパートである「日本の労働環境・仕事観への疑問」に関する文章の難点を書きます。


1. 問題提起の内容が陳腐


本書における日本の労働環境・仕事観に関する問題提起は「陳腐」です。実のところ、著者の主張そのものは分からなくはありませんでした。しかし、本書で書かれている議論の多くはネットで「労働環境 おかしい」と検索すれば出てくる程度のものです。あるいは、メイロマさん著の「日本が世界で一番貧しい国である件について」・今野晴貴さん著の「ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪」で提起された議論と内容はほとんど変わりません。他レビューで本書を「どこかで読んだような内容と感じられる箇所も多い」と評するものがありますが、これは的確な評価だと思います。


もっとも、問題提起の内容がありふれているとしても、日本の労働環境のおかしさを示すエピソードが多く盛り込まれているのならば、そこに価値を見出すことは出来ます。しかし本書はエピソードがほとんど語られず、抽象論が展開されることが多いのです。例えば「"社会人なら○○して当然"とか"□□ができないやつは社会人失格"とか、こういう表現を聞いたことは無いだろうか(p.40)」と著者は問題提起するのですが、その後著者はなぜか「試しに、これらのテンプレート表現を利用して、理不尽を強要するフレーズを作ってみよう」と話を進めます。率直に「なんで、自分の経験を書かないんだろう?」と疑問に思いました。あるいは、有給休暇の話でも「他人が有給を取得しようとしていると、"休暇を楽しんでおいで"と気持ちよく送り出す人はあまりおらず、すぐに"この忙しいのに、常識が無い"とか"あいつのせいで、負担が増える"とか、そういった非難が先行する(p.47-48)」と、エピソードを用いずに抽象的な言い回しに留める記述が見られます。


著者は「(自分が)たまたまとんでもない会社に入ってしまったというだけなのだろうと思い、転職を試みようとしたこともあるのだけれど、どうも他の人の話などを聞いていると、日本の会社はどこも大体同じような感じらしい。むしろ、お前の会社はかなりいいほうだ、とまで言われて僕は初めて社会に絶望したものだ(p.170)」と言っているのでエピソードを紹介する余地は大いにありそうなものですが、上記のようになぜか展開されるのは主に抽象論です。これでは、本書の問題提起の中身を「陳腐」と評さざるを得ません。


2. 問題提起が抽象論だらけ。著者の議論に説得力が感じられない。


上で本書の問題提起が抽象論であることを記しましたが、それは同時に「何となく当たってそうな気はするけど、本当にそうなの?」と著者の議論の妥当性への疑問をもたらします。


どういうことかというと、例えば本書にはデータ・統計がほとんど見られません。「有給休暇を使い切る労働者の割合」の国際比較くらいではないでしょうか。amazonにある本書の内容紹介には「日本には"働くことは尊い""会社のために尽くすことは素晴らしい"といった仕事に対する独特の価値観があります」とあるので、「じゃあ独特ではない、普通の価値観は何なの?(海外の労働環境・仕事観はどうなってるの?)」という疑問を抱いたのですが、その答えは本書にはほぼ皆無です(「海外の一部の国では有給休暇とは別に病欠用の"シックリーブ"という休暇がある」という記述はありますが、これはこれで「"海外の一部の国"って具体的にどこですか?」という疑問を持ちます。本書はこんな抽象論ばかりです)。


また、著者の分析・議論が独りよがりだと感じられる箇所が見られます。例えば「そもそも通勤中のサラリーマンは、なんでこんなにつらそうな顔をしているのだろうか。原因は単純に電車が混んでいることだけではないと思う。何度か、早朝の空いている時間の電車に乗って会社に行ったこともあるが、それでも通勤中のサラリーマンが疲れてつらそうな顔をしていたことには変わりがなかった。一方、休みの日に行楽地に向かう電車は混んでいるけど、そのときはみんなつらそうな顔をしていない。車内が混んでいてつらいから、という理由だけでサラリーマンが渋面を創っているとは考えにくい。これはやはり、会社に行くこと自体に人を気落ちさせる要素があると考えるしかないだろう(p.23)」・・・完全に著者の独りよがりな主観ですね。あるいは「幸せになるならみんなでならなければダメだ、それが叶わないならむしろ全員で不幸になった方がいい・・・こう考えて行動していると思われる人が日本の職場にはたくさんいる(p.64)」という主張が何のデータもエピソードも紹介されることなく展開されています。「たくさんいる」ってどのくらいいるのでしょうか?本書からは分かりません。


全体的に、著者が「労働問題の専門家」じゃないことを差し引いても内容が酷いと思います。現状分析の質の甘さをエピソードでカバーできているならまだしも、上述のようにそれも出来ていません。学術的価値もエンターテイメント性もない、非常に中途半端な1冊です。著者が問題についてきちんとした勉強や調査をしたという形跡があまりにも感じられず、個人的には「ネットや本にあった議論・話をそのまま右から左に流しただけなんじゃないか?」という印象を持ちました。


その他「第5章は著者の"こんな社会になったらいいな"という願望がだらだらと書かれているだけで中身が無い」という欠点もあったりするのですが、他方で「陳腐とはいえ、問題提起の内容自体は正しい点もあること」・「第4章のプライベートプロジェクトについての文章は、会社外でお金を得るための方法を学ぶに際して出発点としては良さそう」と感じたことから(あるいは人によっては「著者の起業体験記」を面白く感じる人もいるかと思います)、星1つでは評価が辛すぎると考えてギリギリ星2つにしました。ただ本心としては、可能ならば「星1.5」という評価をつけたかった1冊です。全体的に本書に1580円の価値があるとは思えず、購入は薦めません。 


●「日本一社員がしあわせな会社のヘンな"きまり"」(評価:星4つ)

"徹底した差別化"という価値観が生み出す上質な労働環境

本書で取り上げられている「未来工業」は政府系機関から「日本一勤務時間が短い会社」と認定された会社なのだそうです。就業時間は8時半から16時45分までの7時間15分で、且つ残業は禁止。その上、休日は年間140日。だからといって、給料が安いわけでもない(著者曰く「高くも無いけど安くもない」そうです)。タイトルにある「日本一社員がしあわせな会社」という文言にも頷けます。


最近、新語・流行語大賞を受賞した「ブラック企業」は社員を使い潰すことによって利益を得る企業であるとされています。それに対して未来工業は「人間をコスト扱いするな(p.91)」という考えの下、きちんとした待遇を社員に用意することで社員のやる気を上げ、その結果会社の利益を出そうとするやり方を採用しています。そして、そのやり方で利益は出ています。


ただ、勿論このような恵まれた環境が天から降ってきているわけではありません。未来工業を貫く価値観は「徹底した差別化」というもの。他社がやっていないレベルで徹底的にコストを削り、それにより生まれた利益を社員に還元することで、上記のような上質な労働環境を実現しているのです。その「徹底的にコストを削る」ことについても、未来工業には「改善提案制度」という、会社をよくするための提案を紙に書いて出せばお金がもらえる制度があります。つまり社員が案を考えるインセンティブはきちんと整っており、且つ自分の提案が採用された場合職場環境全体が改善されることもあり得るわけですから、ひいては皆にとってプラスになるという訳です。


本書には未来工業の「差別化」の内容がたくさん詰まっています。日本の労働環境が語られる場合「他国と比べて異常」という方向に話が進んでいることが多いと思いますが、未来工業のように優れた経営をしている企業のやり方について考えてみることももう少し必要なのではないかと感じます。

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ブラック企業アナリスト・新田龍さん「"ブラック企業"という言葉を使っている限り、ブラック企業問題は解決しない」

「今でしょ!」・「倍返しだ」・「じぇじぇじぇ」・「お・も・て・な・し」の4語が年間大賞に選ばれた今年の流行語大賞。そんな中、大賞は逃したものの「ブラック企業」もトップテンに選ばれ、ベストセラー「ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪」の著者である今野晴貴さんも授賞式に出席していた。そして「今でしょ!」の林修さんにブラック企業問題をアピール。これまでも「ブラック企業」という言葉が広まることで、日本の労働環境を改善するための動きが加速した側面があったはずだ。つい最近も、厚生労働省が来年度からハローワークを通じて大学生や大学院生を採用する企業に対し、離職率の公表を求めることを決めたけれど、この取り組みの背景にはやはり「ブラック企業」という言葉が広まったという事情が挙げられるだろう。この度の流行語大賞を機に、より問題解決が図られることが望ましい。


ただ、ブラック企業を巡る問題提起が全ての人に支持されているのかというとそんなことは無い。例えば「ブラック企業アナリスト」という肩書を持つ新田龍さん。彼は「ブラック企業アナリスト」を語りながら「"ブラック企業"という言葉を使っている限り、ブラック企業問題は解決しない」という考えを表明している人物である(http://biz-journal.jp/2013/11/post_3362.html)。posseの坂倉さんは新田さんの考えを目にして次のようにつぶやいていた。確かに新田さんのスタンスはおかしい。また、実は新田さんはブラック企業大賞を受賞したワタミや、裁判所(地裁ですが)が「サービス残業をしている」と認めたユニクロを擁護しており、その点もおかしい。このことから、僕としては新田さんの立場には同意できない点が多い。


ただ新田さんの見解について「確かにそうだな」と思う点もある。具体的には、新田さんの「"ブラック企業"という言葉を振りかざして特定の企業を叩いてばかりでは不毛なんじゃないの?」という考え方は一理あると感じている。僕個人は(特定の企業を叩くことを)別に不毛とまでは思っていないが、仮に企業を叩いて終わり、「どのような企業を問題視すべきか」、「どうすれば日本の労働環境がマシになるのか?」という点について考えないのだとすれば、それでは確かに意味が無い。


例えば「労働基準法違反の企業を批判する」という点について異論がある人は少ないと思う。しかし、当ブログによくコメントを下さるwilliam yaminさんという方が自身のブログで論じたように、「どのような企業を問題視すべきか」という点について「世間一般でブラック企業として扱われている企業・労働環境の中には、実は全く違法ではないものも含まれている可能性が高いということだ。私が気になっているのは、違法行為を行っている企業はともかく、きちんと法律に基づいて労務管理を行っている企業までブラック企業という括りで捉えても良いのだろうか」という懸念を示す声もある(http://d.hatena.ne.jp/williamyamin/20130629/1372467555)。詳しくはあちらのブログの記事を読んでもらいたいが、要は現状、企業は法律を守りながら労働者に対して酷な環境を強いることが出来得るという話である。


単に企業を叩くというやり方では、現行の法制度の妥当性について考えるのは難しくなると思われる。それゆえ、新田さんの意見には一理あると考える。william yaminさんは「各々バラバラの基準でブラック企業を定義し、ただ該当する企業を非難することではなく、どういう労働環境が望ましいのかを議論し、現行の労働法をその理想に沿った法律に書き換えていく努力をすることではないか」とも述べる。こうした思考方式をもって日本の労働問題を検討するアプローチはもっと活発化しても良いのではないだろうか。

「ブラック企業」という言葉を振りかざして、特定の企業を叩いて満足する「だけ」では不毛だという意見に共感してくださった方は、もし宜しければクリックをお願いします
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