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「就活生を救いそうで救わない案」に惹かれてはいけない

少し前の記事で、ビョルン・ロンボルグ著の「地球と一緒に頭を冷やせ」が「どんな行動にも良い面も悪い面もある」ことを教えてくれる本であることを述べた。ここでは「どんな行動」とあるけど、これを「どんな提言」と置き換えることも可能である。即ち、一見素晴らしいことを実現するかのように見える提言であってもその提言には悪い面もある可能性が考えられるということで、即ちその点をチェックする必要があると言える。


例えばロンボルグは交通事故の例を挙げる。彼曰く、毎年世界全体で120万人が交通事故で死んでおり、且つ5000万人が怪我をしていて、その損害額は年額5120億ドルに達するという。ただ、やろうと思えばその損害をほぼ完全に防止することは可能なのだそうだ。もし本当に可能ならば、それは実現された方が良さそうだと思える。


しかしロンボルグはその選択肢が実現されることは無いと述べる。なぜなら、肝心の損害を防止するための方法とは「速度制限を時速10キロに下げること」だからである。正直、例え自分の命を危険に晒す危険が高まったり、あるいは人の命を奪う危険が高まったとしても、大概の人は「車を通じて、そこそこの速度で移動する」という行為を選択するだろう。「120万人もの命を救える」というのはそれだけを見ればとても魅力的なものだが、いざその目的を達成するための手段について考えると「日々の生活が大いに不便になる」という無視できない難点に直面せざるを得ないという訳だ。


就活を巡る議論でも、一見就活生を置かれている状況を改善するかのように見えても実はそうではない、あるいは一部の人の利益にしかならないであろう主張が見られる。例えば、以前「就活生組合」という就活の問題点を世に訴えていくことを目的とする組織があったのだが、その組織は主張の一つとして「企業は就活生に交通費を支給してくれ」というものを掲げていた。これは一見、就活生からすれば金銭面に関して大いに助けになりそうな提言のように思える。しかし、その提言に対しては次のような批判があったりする(http://daihukucho.livedoor.biz/archives/6501114.html)。

企業が新卒採用にかけるバジェットは固定であるがゆえ,交通費が増大すればその他のコストを下げるからです。簡単に言えば,面接工数(人件費)を下げることになるでしょう。すると,確実に会うべきである学生についてのみ面接をすることになるので,尋常じゃない学歴フィルターがセットされるわけです

要は「選考に臨む就活生に交通費が支給される」という利点と引き換えに「面接に進める人数が少なからず減る」という難点がある提言になっているということ。この難点を踏まえると、提言を支持できないと感じる人も増えるのではないだろうか。


あるいは、僕自身も以前「"企業は就活生に不採用理由を伝えるべき"という問題提起はもう見飽きた」という過去記事でも述べたように、よく主張される「企業は就活生に不採用理由を伝えるべき(そうすれば就活生も自分が落ちた原因が分かって、それを踏まえて対策が出来るようになる)」という提言にも「落とされた理由を聞かされたら心が折れる学生が増える」という難点があるという見解がある。他にも、例えば常見陽平さんはポストセブンの「就活"不採用の理由開示"すれば学生を苦しめるだけと専門家」という記事で同様のことを述べている。


その記事に限らず常見さんはよく「就活をめぐる改革論はこのように、もっともそうで実は若者を救わない案だらけ」という趣旨のことを言っているけれど、この指摘は妥当だと感じる。もっとも、悪い面があるからといって即改革案を否定するのは妥当ではなく、良い面と悪い面を比較して前者が上回る場合にはその案を前向きに検討するというアプローチが良いのだと思う。少なくとも、一見就活生を救いそうで、実は救わない案に安易に惹かれてはいけない。

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「自分の読書レベルはまだまだしょぼい」という自覚を持つことの必要性

読書家の俺が思う読書の弊害」というエントリをきっかけに、いくつかのブログで読書論に関する記事が書かれている。この「読書家の俺が思う読書の弊害」には「その辺にある新書100冊くらい読めば、自分の成長ぶりに驚愕するぞ。でもな、読書すると周りの奴らが滑稽に見えてくる。自分に自惚れて、周りが許せなくなる」という、本気で書いているのか釣りなのかちょっと判断が難しい文章があったりする。


この「新書100冊くらい読めば、自分の成長ぶりに驚愕する」のくだりが薄っぺらく見えてくる文章として、「読書」に関するブログ記事で最も僕の印象に残っている「読書の方法と無方法 ― なぜ読めないのか?」には次のような記述がある。

すべての文言が理解できる本などというものは、ほとんどあり得ない。“本が読める人”というのは、むしろ読み飛ばすことができる人のことを言う。どんな難しい本も、必ず2行や3行くらいは“わかる”文章に出会うことがある。そういった2行や3行が5頁おき10頁おきに1ヶ所、2ヶ所必ず存在している。そういった“わかる”箇所を一つ、二つと見出しはじめていくと、従来わからなかった箇所の一部までもが何となくわかってくる感じがする。点が線で結びついていく。そうやって、こじ開けるようにして難しい本を読み開いていく。それが読書だ(中略)言葉を読み込む、文章を読み込むということに最初もなければ最後もない。点を線につないだり、線を点に戻したりしながら、一つの同じ言葉が、一つの同じ文章が何回もその意味を変えていく様(さま)を体験すること、それが読書だ

これは「努力する人間になってはいけない」の著書で知られる芦田宏直先生のエントリ。ちなみに、息子の芦田太郎さんはこの文章について「俺がまだまだ新書レベルで満足し、親父の本棚の本に辟易しているのを見た親父からのメッセージのような気がします」・「小説しか読まない人も、新書レベルで止まってる人も、新書レベルを毛嫌いする人も《読書》しませんか?(http://blog.livedoor.jp/taro_0726/archives/50460340.html)」と言っていて、つまり芦田家からすると「読書家の俺が思う読書の弊害」を書いた人はそもそも「読書」をしているかも怪しいということになりそうである。


僕の理解が正しければ、外山滋比古先生も「読みの整理学」という本で似たようなことを述べている。

既知を読むのをアルファー読みと命名したい。そして、もうひとつの未知を読むのをベータ―読みと呼ぶことにする(中略)どんなによく知っていると思っている問題について書かれた文章であっても、知らない新しい未知のことが織り込まれていないとは言えない。しかし、大部分が分かっていると、かりによく分からない部分があっても、前後関係で検討がつく

要はどちらも「分かるところを手掛かりに、分からないと感じた部分の理解を試みてみよう」と言っているのだと思っている。この点、上述のように芦田先生は「2行や3行が5頁おき10頁おきに1ヶ所、2ヶ所必ず存在している。そういった“わかる”箇所を一つ、二つと見出しはじめていくと、従来わからなかった箇所の一部までもが何となくわかってくる感じがする」と言っており、これに対しては「分からない部分に対して分かる部分はほんの僅かしかないのに、それでも分からない部分が分かってくるものなのだろうか?」という疑問が浮かぶけれど、それはそんな疑問を抱いてしまう僕の読書レベルもまたしょぼいという話に過ぎないのかもしれない。


今回取り上げたのは「未知の部分を読み解く」というテーマであった。ただ、他にも例えば「本を読む本」における「シントピカル読書」の説明の中で、著者は「熟達した読者は、読んだ本を手掛かりにして"それらの本にはっきりとは書かれていない"主題を、自分で発見し、分析することもできるようになるはずである」と言っていて、これもまた「自分がしている行為は本当に"読書"と言えるのか?」という自己点検を促す記述である。勿論、必ずしも読書という行為をそんなに堅苦しく考える必要はないだろう。しかし、読書を単なる趣味としてではなく知的レベルの向上を図る手段として活用することを考える人は、自分の読書レベルに向上の余地が大いにある可能性を自覚するべきなのかもしれない。 

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「この人が言っていることは概ねクソだけど、この主張は妥当だ」と言えると良い

前回の記事の最後で「"Aという主張には賛成できるけど、Bという主張はさすがにないわ"など、各主張を個別具体的に評価することが大事」と書いた。ただ以前「ななし@Notitle」さんが「管理人さんは本田由紀さんの一派に甘い感じはするけどね。まあ、人間だから好き嫌いはある」とフォローを交えながらも指摘をしてくださったように、評価の過程で恣意的な判断が入ってくる可能性は常にある。即ち、自分が概ね好んでいる論客の主張であってもそれがおかしいものである場合は批判し、逆に自分が嫌っている論客の主張であってもそれが妥当なものである場合は支持する姿勢を意識するべきだと言える。一応このブログでも不十分とはいえ、そういうスタンスを試みている。


例えば、僕はNPO法人「"育て上げ"ネット」の理事長である工藤啓さんの文章を概ね好意的に評している。それは、工藤さんの問題提起からは若年無業者の実態を学ぶことが出来たり、若年無業者問題に関して何となく存在する「通念」を鵜呑みにしてはいけない姿勢の大事さを感じ取ることが出来たりするからである。このような理由から、僕は論客としての工藤さんをかなり好んでいると言える。


しかし一方で「不採用の理由が分からずに苦しむ就活生をサポートする役割を担うべきなのは企業ではない」という記事では工藤さんの「"なぜ"がわからないことすら自己責任の範疇に落とすのは無理がある。サポートする側も理由がわからないからサポートも漠然としたものになりがち」という考えをかなり痛烈に批判している。それは、本来工藤さんら就職支援団体が担うべき役割を企業に転嫁する主張であり(もっともそれは「不採用理由が分からない」と悩む就活生を保護するためなのですが)、妥当性を欠いていたからだった。自分が好んでいる論客だからと言って常に妥当なことを主張するとは限らず、ゆえに「各主張を個別具体的に評価することが大事」という前回の記事の主張が意味を持ってくると思う訳である。


逆に、自分が嫌っている論客だからと言ってその人が常におかしなことを主張しているのかというと当然そんなことはない。この点、「velvetten」さんという方はこのブログにおける常見陽平さん批判などについて「基本的にこのブログは良い所は徹底的に無視し少しでも悪い所を大げさに晒し上げるというスタンス」と評していて(http://b.hatena.ne.jp/entry/lingmu12261226.blog10.fc2.com/blog-entry-49.html)、これを見ると僕が「嫌っている論客の良い点を評価する」ということを一切していないかのように思える。


確かにこのブログには常見さんを批判している記事は多いし、且つ常見さんの文章に対して「正直常見さんは学生らから見下されても仕方がないと思う」・「よくこんな、就活生のエントリーシートにも劣る文章が売り物になっているものだと思う(http://lingmu12261226.blog10.fc2.com/blog-entry-425.html)」とまで言ったこともあるので(笑)、どう見ても僕が常見さんを嫌っているのは明らかだ。しかしそれでも、例えば「"ウチが第一志望ですか?"という質問を1次面接の段階でするのはおかしくないか」という記事では常見さんの「やや極論ですが、企業の採用担当者は"ウチは第一志望ですか?"という質問をやめるべきだと考えています」という主張にほぼ賛成しているし、あるいは「"企業は既卒者採用にも積極的じゃないか"という言説から既卒者を守るための2つの策」という記事では「企業は毎年、どの大学、どの学部から何人、どの職種で採用したかを公に発表する。男女比ももちろん開示する」という主張を比較的好意的に取り上げている。要は、嫌いな人であっても良いと思った主張は良いと言っている訳だ(まぁ、常見さんの主張を支持した記事と批判した記事では圧倒的に後者の方が多いはずなので、「velvetten」さんが勘違いするのも無理はないのですが)。


冒頭で紹介した「ななし@Notitle」さんの指摘の中にある「人間だから好き嫌いはある」というフォローはもっともだ。しかし、一方でこうしたフォローに甘えすぎてしまうと妥当な主張を不当に貶めたり、トンチンカンな主張を苦し紛れに擁護してしまうことになりかねない。端的に言えば、各主張を個別具体的に評価する際には自分の見方に「バイアス」がかかっている可能性を出来る限り自覚する必要があるということなのかもしれない。

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「日本の労働環境はおかしい。でも、日本の労働環境を批判しているこの主張はおかしい」と言える姿勢を各人が持つべきだ

前回の記事で紹介した「地球と一緒に頭を冷やせ」という本はビョルン・ロンボルグというデンマークの統計学者が書いたものである。「ロンボルグ」と検索しようとすると検索候補に「ロンボルグ 批判」・「ロンボルグ 転向」と出てくるため、彼の議論の信用性などをどこまで信用していいか疑わしいところはあるのだが、それでも「地球と一緒に頭を冷やせ」に書かれている彼の議論のスタンスは就活・労働問題を考えるにあたって大いに示唆を与えてくれる。


「地球と一緒に頭を冷やせ」は地球温暖化問題について考察した本なのだが、その本で示されているロンボルグの考えは極めて明快である。その考えの一つが「地球温暖化は確かに問題だけど、マスコミなどが言うような大災厄が起こるわけではない」というもの。ロンボルグはこの考えに基づき、「不都合な真実」で知られるアル・ゴアなどが語る地球温暖化を問題視する主張を批判している。


ここで注意したいのは、ロンボルグは別に「地球温暖化という事象に何も問題は無い」とは思っていないということ。ロンボルグは地球温暖化が本当に起きていること、且つ地球温暖化が人類に深刻な影響を与えていることも認めている。しかしそれでも、アル・ゴアらが主張するような悲観論は正しくないと考え、ゆえにそうした言説を批判しているわけだ。


このことから、論者の立ち位置を「地球温暖化という問題があると考える」か「地球温暖化という問題は無いと考える」という2つのいずれかとみなすのはあまりにも単純で、例えば「地球温暖化という問題はあるけど、地球温暖化を問題視する~な言説は明らかに妥当ではない」というスタンスがあり得ることを感じ取れるのではないか。そして、特定の問題提起に批判的な目を向けているからと言って、それが「問題なんか一切ない」という考えを示しているわけではないのも分かるのではないか。後者について、ロンボルグは「環境危機をあおってはいけない」という本で次のように述べている。

ひどくよく聞く怪談が不正確だと指摘したからといって、環境改善の努力をしなくてもいいということにはならない。それどころかまさに正反対。

就活・労働問題の専門家でロンボルグと同じような立場でいるのが、海老原嗣生さんである。彼の文章は「就活・労働に関してこんな危機が叫ばれているけど、実際は皆が言うほどは大したことないよ」というパターンが多い。これまでこのブログでも書いてきたように、個人的には海老原さんの主張はデータの解釈がおかしかったり、あまり誠実とはいえない印象操作と思われる文章もあったりして嫌悪感もそこそこ抱いているのだが、一方で彼がデータに基づき(前回の記事で大事だと言った)「問題の規模はどのくらいなのか?」という点を適正に測ろうとしている点は素晴らしいと思っている。


現状の就活・労働環境に怒りを覚えているとしても、その怒りに身を任せて、就活生・労働者を擁護して企業を叩く言説を無条件に肯定したり、好んだりしているようではいけない。例えば「日本の労働環境はおかしい。でも、日本の労働環境を批判しているこの主張はおかしい」と言える姿勢を各人が持てれば良いと思う。要は「Aという主張には賛成できるけど、Bという主張はさすがにないわ」など、各主張を個別具体的に評価することが大事だということだ。そうすることで有益な問題提起が残り、またトンチンカンな問題提起が消えていき、本当に考えるべき問題を集中的に考察することが出来るようになるのではないか。

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就活・労働の問題点を指摘する言説が就活生を委縮させてしまう危険性

「人でなしの経済理論」・「地球と一緒に頭を冷やせ」という本は共に山形浩生さんという翻訳家が訳したものであるが、これらはいずれも「トレードオフ」について扱った本である。これを簡単に言えば「どんな行動にも良い面も悪い面もある」という話で、山形さん曰く「人に親切にしましょう」・「お年寄りは大切にしましょう」という一見明らかに良い話にも実は悪い面があるし、逆に「無差別殺人」・「泥棒」などの一見明らかに悪い行為にも良い面があるのだという。


無差別殺人などと比べたら議論のスケールがしょぼくなるけれど、このブログで取り上げている就活・労働問題に対する考察についても「トレードオフ」について考える必要があると言える。この点、就活・労働問題に対する考察を深めるということはその分野における問題点を明確化し、且つそれに対する処方箋を編み出すということを意味するはずなのだから、そのような行為に「悪い面」などあるはずがないと考える人もいるかもしれない。


しかし、「法律事務所のホームページを通じて労働問題の基礎知識を得ることのススメ」という過去記事にstamさんが寄せた「ブラック企業の定義がすごく歪んできているような気がします。例えば、Aという会社に悪い評価が1個あっただけで、ここはブラックなんだ。だったら行かない!みたいな」というコメントが、就活・労働問題について考察を深める行為の悪い面を考えるにあたって重要なヒントとなる。どういうことかというと、stamさんのコメントは、就活・労働の問題点を指摘する言説が就活生を委縮させてしまう危険性の存在を示唆していると言えると思うのだ。


例えば、常見陽平さん著の「就社志向の研究」では大学職員の方の「出演者の型の意見は大変面白かったです。でも、番組の構成自体がよくある"就活は大変だ、かわいそうだ"という光景で、逆に学生を委縮させてしまうのではないかと心配になりました」という声が載っている。実際にこのブログでも「"就職が厳しい"からこそ"就活で自分が落ちるのがわかるからなかなか行動しない"」とコメントが寄せられたことがある。あるいは、これは推測に留まるけれど、stamさんのコメントを踏まえるとブラック企業の議論が盛り上げるにつれて、その議論が「ここもブラックなんじゃないか、あそこも実はブラックなんじゃないか・・・」と就活生を委縮させてしまう可能性が考えられる。


このように、就活・労働環境の問題点を訴える言説が盛り上がることには「悪い面」もあると言える。しかし一方で、現在の就活・労働環境に問題があることは事実なのだから「就活生が委縮する可能性」を理由にその問題点を一切指摘できなくなるというのは妥当ではない。


このことから、「地球と一緒に頭を冷やせ」を書いたビョルン・ロンボルグさんが述べたように、問題点を指摘する際には「問題の規模はどのくらいなのか?」という点をはっきりさせる点が重要になると考える。即ち、例えば「日本企業はどこもブラックばっかりだ!」というオーバーな問題提起は却下すべきだといえる。確かに「問題提起」という行為は重要だけれど、一方でその行為には悪い面もあるのだから、問題提起の際には常に一定の慎重さが求められるべきなのではないかと思う。

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