話題になっている岩波書店の「コネ採用」は、就活生のコネクションを作る能力を積極的に評価することの現れといえる。
形は違うが、「人とつながる能力」を評価の対象にしている会社がある。その名は、トレンダーズ株式会社。「自分の会社をつくるということ」などの著書がある経沢香保子さんが社長を勤める会社である。
具体的には、2012年度の新卒採用にて「Facebook枠」を設置し、その枠では「Facebook上で200名以上の友達がいる学生」は、会社説明会への参加・書類選考・一次面接を任意でスキップすることができるという。このような枠を設けた理由としては、「ソーシャルメディアを使いこなしている学生=新しいメディアへの対応力と情報発信力の高い学生とみなせること」、「ユニークな採用手法を導入することにより、学生の就職活動負荷を軽減させること」が挙げられている(http://www.trenders.co.jp/release/release20101115.html)。
「ソー活」という言葉がはやっているように、コネクションを作る能力がますます就活生に求められてきていると思う。中には「コネを作れれば勝ちなんて、バカみたい」と思う人もいるだろう。確かに、「コネがすべて」という状況は馬鹿馬鹿しいと思うけれど、コネクションを作る能力は仕事を行っていく上で必要となる能力であることは事実なので、岩波書店のようなコネ採用、トレンダーズのようなfacebook採用を行うことは合理的だ。
ただ、これは分からない人にはまったく分からないだろうけれど、このような選考手法が広まることに息苦しさを感じる人も多いと思う。
「人とつながる」という言葉はポジティブに捉えられることが多いと思うけれど、こういうポジティブな言葉が全く救いにならない人がいるということも分かっておいた方が良いのではないかと感じる。「友達、知人が増えるのは良いことじゃないか!」という人が多数派なのかもしれないけれど、一方で「人とつながりたくないわけではないけれど、人とつながるのが怖い・・・」、「別に人とのつながりなんて最低限でいい。人と会う位なら、一人で本を読んでいたい」という人もいるのだ。このことを理解するための教科書として、お笑い芸人・ピースの又吉直樹さんが書いた「第2図書係補佐」という本をお薦めします。
少しずつ、少しずつ、「人とつながらない者、人間にあらず」という空気が醸成されているような気がするのは気のせいだろうか。誤解しないでほしいが、「人とつながる」ことは会社で働く上で重要・・・というか殆ど必須条件みたいなものだと認識しているので、「人とかかわりたくない」という人も積極的に雇うべきだ!という主張をしたいわけではない。しかし矛盾するようだけれど、内向的な人の就職が過度に難しくなってしまうならば、それはどうなのだろうという気もする。表向きは人間の多様性を尊重することが良いとされているにも関わらず、その「多様性」の範囲が狭すぎるんじゃないかという疑問はぬぐえない。でも、人とコミュニケーションを取れない人を雇うことに企業がメリットを見出すわけないし・・・という思考の堂々巡り。
せめて、企業が「コネクションを作る能力」を就活において過度に重視することの落とし穴については自覚的でありたい。この点、秋葉原での通り魔事件の犯人が「勝ち組はみんな死んでしまえ」とサイトに書き込んでいたことを思い出す。それと同様に、「人とはつながりたい。しかし、なかなか上手くつながることができない・・・」、「人と過度につながりたくないのだけれど、つながらないと就職できない。苦しい」という思いを抱いた就活生が、一見人間関係を容易に築いているように見えるリア充に対し「リア充はみんな死んでしまえ」という思いを抱いてもおかしくないのではないか。確か昨年には、精神的に追い詰められた就活生によるバスジャック事件があったけれど、また別の事件が今後起きても全く不思議ではない。
確かにコネクションを作る能力は大事だけれど、その能力を重視することが行き過ぎると、特定の層の就活生が苦しむことになるのではないかという考えに共感してくださる方は、もし宜しければクリックをお願いします。
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人との繋がりを重視するのは良いことだと思うが、学生を評価する場合それは2番目の基準であるはず。
学業を基準にしないのであれば最初から高卒を採ればいい。
1人で研究室にこもって死ぬほど研究して有名な雑誌に論文が掲載され国際学会で賞をとった人より、
バイトとサークルで人をまとめましたという人が評価される社会でどの口が「若者の理科離れ」とか「学力低下」「ゆとり」なんてほざくんだろう。
「人と過度につながりたくないのだけれど、つながらないと就職できない。苦しい」
まさに私の事です。
一人が好きでひとりでいたい。極力人付き合いは避けて、自分の趣味に没頭したい。
こういう人間がいったら社会は迷惑なのでしょうか?
飲みづきあいが悪いとか、外交的じゃないとか非難されて阻害されなければいけないのでしょうか?
挙句の果てに孤独死?鬱?精神錯乱?麻薬中毒?
maruさん
「1人で研究室にこもって・・・ほざくんだろう。」
なにか同様の経験があるのでしょうか?気になりました。
「絆」「人との繋がり」など、そういった言葉を震災以後の現在、頻繁に耳にしますが、どうも言葉だけ浮いているような気がします。無理やり、なんでもかんでもその言葉で解決をしようとする風潮すら感じられます。
コネクションを持つに越したことはないと思いますが、「Facebook枠」というようなものにはどうも違和感を覚えます。あるテレビ番組で俳優の哀川翔さんが言ってたのですが、彼にいわせると、「友達というのは作ろうと思って作るものではない」そうです。一緒に時間を過ごして、お互いを理解することで“友達”という関係が成立するのだとも。「Facebook枠」なるものは、“友達作り”を強制しているようにしか思えません。
Facebookやブログによって、簡単に人と交わることが可能となりましたが、そこには生の人間関係といえるものがない気がします。リアルティがないと言うべきかもしれません。ワンクリックで成立する友人関係が、はたして本当の友人関係といえるのでしょうか?
……話はかわりますが、この記事を読んでいて、昨年公開された映画『ソーシャルネットワーク』のラストシーンをふと思い出しました。
lingmu さん、こんばんわ。
手書きエントリーシートにしても、コネにしても、facebookにしても、 企業はとにかくなんでもいいからエントリー数を減らしたいのかなと思います。
優秀な学生とか、そうじゃない学生とか、本当にそんなに大きな違いがあるんでしょうか。人間の仕事をする能力なんて、実際にはだいたい同じようなもんなんじゃないでしょうか。
供給過剰なので、無理やりにでも変な基準を作って、ふるい分けをしているだけのように感じます。
いずれにしても、追い込まれて何かをやってしまうほどの価値のあることではないはずです。
FaceBookかぁ。一応やってるけど、大学生and社会人の使い方見てると、携帯アドレス交換と同じ感覚なんだよねぇ。登録しても使わないというオチ。
「Facebook上で200名以上の友達がいる学生」という基準は恐らくTwitter / FaceBook上で開催されるイベントや、ATND、IT勉強会カレンダー(打ち上げには必ず出席)とか積極的に参加しまくればすぐ達成できるような気がする。しかし、友達か?と問われれば疑わざるを得ない。実際、私のFaceBookに登録してる人で連絡...というかTwitterでしょっちゅう話してるの3人ほどしかいない(約10数人中)。
個人的な意見だけど、そんなに軽々しく"友達"って使ってもいいものかね?と思ってる。あとで自分のブログにでも考えをまとめようと思ってるけど、今の友達って、どっちかというと"付き合い"に近いんじゃないかな。かなり緩い繋がり。いや、一瞬んで消える出来事かな。うちはそういうの友達というより、知り合い程度って認識してるから疎遠になるのも当たり前かな、と思ってたりする。
「ジョージ・ポットマンの平成史」というNHKの番組があるのだけど、先月、【友達いないと不安史】というテーマで放映されてて、途中から見てたんだけど、どうも人々が「友達がいないと不安」という状態にまで陥ったのはここ10年のことらしい。それに拍車をかけたのが、携帯アドレス・プリクラ・ポケベル・FaceBook / Twitter等のSNSで、何でか?というと、アドレスやプリクラの"数"が人間的な魅力の優劣を決めると見なされるようになったから、ということらしい。
スゲー馬鹿らしい話だけどね。うちの場合はホントに信頼できる人2-3人入れば十分だと思う。
ジョージ・ポットマンの平成史【性教育史 後編/友達いないと不安史 前編】
http://www.tv-tokyo.co.jp/program/detail/21800_201201072450.html
コネクションについては、うちは中立だな。コネを作れるのも1つの努力の結果だし、ずるいとは思わない。しかし、新卒採用だけ、既卒が不利、年齢が就職時にネックになる社会でコネだけ採用は猛毒にしかならない。普通の学生を追い詰めるだけだと思う。コネを完全に認めさせるには、"何時でも就職できる、遅いということはない"・"何歳になっても就職できる、遅いということはない"という考えを広めないと。今の日本は「仕事をする」というコストが高すぎる。
>「絆」「人との繋がり」など、そういった言葉を震災以後の現在、頻繁に耳にしますが、どうも言葉だけ浮いているような気がします。無理やり、なんでもかんでもその言葉で解決をしようとする風潮すら感じられます。 (黒 紅 茶)
もうこれは仕方ない気がする。結構な経済効果期待できるから。日本人は至って「以心伝心」とか「察する」とかが好きな、どうしようもないほどの協調・同圧主義だから、「絆」「人との繋がり」と言ってれば、それにつられて人々の財布の紐が緩むんことを期待してるんじゃないかな、と勘ぐってたりする。この売上は全額寄付しますとか。アレほんとに"全額寄付"してるのかね?
話変わるけど、「絆」「人との繋がり」という割には就活生・フリーター・ワープア・ホームレスにめっさ厳しいのよね。どうしようもないことを「自己責任」で片付けようとする人もいるし、そういう人達をせせら笑う人もいる。どこが「絆」「人との繋がり」なんだか。呆れてものが言えない。
対策本見たら分かりますがSPIのネット版性格検査は明確な回答あるようなものですからね
社交性ありスポーツ好き素早く判断して行動してリスクを犯してチャレンジすることが「正解」で
自責性あり他人にどう思われても気にならない自分のやり方で物事を進めたい常に強気でおしゃべりなのが「間違い」になるようです
この記事に限らず、コメントをくださった皆様、本当にありがとうございます。コメントが返せていなくてすみません・・・。実は、「最新記事のネタが思いついたら、そっちを先に書く→コメント返信できない」・・・というどうしようもない流れがあったりします。金曜の夜〜土曜には本格的にお返事したいと思っておりますので、見捨てないでください(笑)
さて、この記事に関してですが、本格的なコメント返信の前に一つの記事をご紹介いたします。
コミュニケーションがボトルネックになった社会(
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120208/p1)
この記事で書いたこと、あるいは漠然と思い浮かんでいたけれど文章化できなかったことを明確に表現しています。興味がある方は、ぜひ読んでみてください。
>コミュニケーションがボトルネックになった社会(
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120208/p1)
コミュニケーションコミュニケーションっていうけど、意外とこれも定義が曖昧な気がする。
コミュニケーション能力が高いって「友達100人いる」とか「異性にモテる」みたいなイメージで使われてることが多い気がするが、リア充の馴れ合い的なコミュニケーションが全てじゃないだろ。
業界によってはリア充のノリみたいなコミュ力を最優先で求めるところだってあるが、別にリア充じゃなければ就職できないってわけでもない。
どの能力が必要とされているのは企業によって違うんだし、「ただのバイサー野郎が勉強してきた俺より評価されてるのはおかしい」って感じるのは志望企業とのミスマッチか、人気企業内定者が人間的にもより優れているという大企業病的な発想。
ただ働くうえで他人と繋がりたくないってのも、これまた極端だよ。
一人でいたいって気持ちもわかるけど働いて生きる選択肢を選ぶ以上、オフどころかオンでも人とコミュニケーション取りたくないんですってのは無理あるでしょ。
「一人で読書していたい」「一人で学問に打ち込みたい」のは他人と関わりたくないから?読書好き研究好きな人で社交的な人が聞いたら怒るわ。
そもそも大学教授・研究者だって学会でコミュニケーションとらないとやっていけんし、学派による人間関係だってある。
コミュニケーション力の定義が曖昧だから「コミュ症」も曖昧になってる気がすると私は感じたな。
本当に見知った人以外の人と一切意思疎通できないのならそれはそれで就職とは別の社会問題。
>ほらいぞんさん
「リア充」にはどんな人に対してもやさしく接する人もいるけど、一方で「付き合う人を選ぶ」人もいるよなあ。
身内では仲良くどうでもいい外部には厳しく・・・ってのはムラ社会的なものがあるんだろう。
現国に出てきそうなエラい先生の評論文みたいだけど
皆様、コメントへの返信が遅くなってしまって申し訳ありませんでした。これから、少しずつ返信させていただければと思います。
> maruさん
コメントありがとうございます。この記事とは関係ありませんが、特にユニクロの大学1年生にも内定を出しうる採用システムについて「それだったら別に大学生である必要はなくない?」という意見が多く見られました(僕の記事も参照していただければ笑
http://lingmu12261226.blog10.fc2.com/blog-entry-78.html)。いわゆるコミュ力も重要なのは否定できないですが、その要素を重視する程度が大きすぎる現状があるのかもしれません。
> princessmia さん
いつもコメントありがとうございます。
「人付き合いをしたくないとまでは言わないけれども、あまりにも過度な付き合いまではしたくない」という人にとっては生きにくい社会になっているのではないかと感じます。企業の側が「飲みづきあいなんか良くなくて良いよ。一緒に働こう!」と言うことはありえないので(笑)、人付き合いが苦手な人が一体どう生きていけば良いのか、僕にも分からないでいます。問題提起をしておいて無責任ですが・・・。
> 黒 紅 茶 さん
こんばんは、いつもコメントありがとうございます。映画『ソーシャルネットワーク』のラストシーンってどんな感じなんですか?(笑)映画を見ていないもので・・・。
何をもって「本当の友人関係」と称するかは難しいですが、確かに、簡単に人とつながることができるツールが発達したことで「浅い人間関係」が多く見られるようになったのかもしれません。ただ、最初は薄っぺらい関係性でも、一度つながっておけばまた別のきっかけで仲が深まることもあるかもしれませんから、「ワンクリックで成立する友人関係」というのも案外悪いことばかりではないかもしれません。
ただ、それでも特に人見知りの人は「薄っぺらい関係性」を作ることにも一定のストレスを感じると思いますので、「Facebook枠」という選考が広まったら精神的に苦しくなるだろうと想像します。
> sinitiainen さん
お久しぶりです、いつもコメントありがとうございます。
「企業はとにかくなんでもいいからエントリー数を減らしたい」というのは正しいと思います。企業も、(言い方は悪いですが)どうでも良い学生には会いたくないでしょうから、エントリー数を減らすために、エントリーを可能にするための一定の要件を就活生に課す企業は今後増えるかもしれません。
僕は以前、武田薬品工業の「TOEIC730点以上の人のエントリーのみ受け付ける」という方針を批判しましたが、最近になってこれが一番良い応募者の絞り込み方なのかなと感じるようになりました。大学生なら大学受験で英語はやっているはずですし、これからの仕事では英語が必要になる可能性も高いですから、そのような能力を就活生に求めることには納得できます。
> ほらいぞんさん
お久しぶりです、コメントありがとうございます。
特に「ジョージ・ポットマンの平成史」の話がとても面白かったです。企業も、「アドレスやプリクラの"数"が人間的な魅力の優劣を決めている」とまでは考えていなくても、友達がたくさんいる人は少なくとも「ハズレの人間」ではない・・・というように考えている可能性はありますね。
似たような話では、森口明さん著の「いじめの構造」という本には、個々の生徒の自己主張力・共感力・同調力に応じた「スクールカースト」が学校のクラス内で形成されており、それがいじめの温床になっているという話が載っています。自己主張力はともかく、共感力・同調力というのは言い換えれば「人とつながる能力」。このような能力が欠如している人が排除される構造はどこにでもあるのかもしれません。
また、最後については「社会人でないもの、人間にあらず」という意識があることが大きいのだと僕は考えています。「人との繋がりの大切さ」を謳いながらも(就活生はともかく)フリーター・ワープア・ホームレスを排除するのには矛盾は無い。なぜなら、フリーターたちは「人」ではないからだ・・・という潜在意識が多くの日本人にあるのかもしれません。
> 「対策本見たら分かりますがSPIのネット版性格検査は明確な回答あるようなものですからね」というコメントを下さった方へ
はじめまして、コメントありがとうございます。
そうなんですよね、「正解」ありますよね、性格検査(笑)「自分に正直になって、設問に答えてくださいね」といっても、内気で消極的な人が正直に設問に答えたらアウトになる可能性が高い。考えてみれば、これも就活における茶番の一つですね。
>のさん
こちらの記事にもコメントありがとうございます。
「コミュニケーションがボトルネックになった社会」という記事を紹介しておいてアレですが、僕も生きていく以上は「人と全く関わりたくない。でも、働いてお金も稼ぎたい」という望みを突き通すことは難しいと思っています。だからこそ記事でも<「人とかかわりたくない」という人も積極的に雇うべきだ!という主張をしたいわけではない>と書きまして。それでも、人とつながることが就活生に「過剰」に求められる時代が到来するとしたら、その状況に対して多大なストレスを抱く人も出てくるのでは・・・?という危険性を指摘したかったというのがあります。
非現実的ですが、仮に「Facebook上で200名以上の友達がいる学生のエントリーしか受け付けない」という企業が増えたら、やはりそれなりにキツいだろうと感じます。いや、企業も就活生のエントリー数を減らしたいでしょうから、このような要件を設けることもあながち非現実的でもないのかも・・・。
なお、のさんがご指摘されているように「コミュニケーション」という言葉の意味は多義的であり(リアのノリ的な意味以外にも、人の話の要点をつかんで、それに対して自分の考えを論理的に伝える能力も「コミュニケーション能力」といえる)、ゆえに僕は記事において「コミュニケーション」という言葉を使わず「人とつながる能力」、「コネクションを作る能力」というように表記しています(あんまり変わらないですかね笑)。
私は、小中高と学生時代の間、ずっといじめられ続けてきました。
私をいじめてきた人は、いつの時も、空気を読むことができる、人をまとめられる等の、所謂つながりを大事にする人たちでした。私は不協和音であると言われ続けました。
今、就職において、まさに私を攻撃してきた人たちのような人が評価されているような気がします。社会に見捨てられた心地がして吐き気がします。
私がいじめられたのは努力不足だったからですか?
極端なことを言っているように見えるかもしれませんが、あまりにもコミュニケーション能力を大事にする風潮は、「人をいじめることも才能」と言っているようにさえ見えます。
私は、そういう社会の中において、不協和音であることを誇りに思います。
> ぐまさん
こちらの記事にもコメントを有難うございます。
ぐまさんのエピソードからは、本当に「つながり」という概念の持つ闇が浮き彫りになっているように感じました。ぐまさんが仰っていることと殆ど変わらないかもしれませんが、「つながり」の重要性を訴えれば訴えるほど、その輪に入れない人に対する風当たりは強くなるのではないかと思います。一部の人にとってはとても生きやすく、そして一部の人にとってはとても生きにくい社会になっているのではないか。このような問題意識を抱いています。